『富坂だより』 8号
2001年12月

特集:『鼓動するアジアのキリスト教』出版記念シンポジウム

【目 次】

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范樸 (FanPu)作「中国」
(『鼓動するアジアのキリスト教』表紙)


巻頭言

聞こえてこないフィリピン教会の鼓動

笠原義久


この夏私は、7名の神学生と共に、フィリピン合同教会の代表的な神学校の一つ、シリマン大学神学部を訪れた。1991年以来交流プログラムの一環である。かつてフィリピンのあらゆる地方の教会から送られてきた若い神学生の生気で満ち満ちていた神学校のチャペルも、今は閑散としている。大学の授業料が大幅にアップされた影響も勿論あるが、フィリピン合同教会の全体的な力の衰微もその一因ではないかと思わされた。

教室では、聖書の使信と、社会の危機的諸問題とを切り結ぼうとする神学教育の基本姿勢が依然堅持されている。ちょっと覗いた旧約のクラスでは、アモスの時代の土地所有システムと今日フィリピンにおける焦眉の問題の一つである農地改革の問題とをかなりストレートに結びつけ、アモスの社会批判の射程を現代にまで届かせようとしていた。しかし20年前、私が知っていたあの生命的な信仰は、あの豊かなスピリチュアリティはどこにいってしまったのだろうか。かつて「闘争の神学」や「草の根の民衆神学」は、もはや主導的な力を失っているかのように見える。「貧しい民衆」が圧倒的な数で歴然として現実に存在するフィリピンで営まれる「民衆神学」は、韓国の「民衆神学」の去就とは異なり、明確な神学的現場をもっているはずなのに。  

今年出版されたセンターの『鼓動するアジアのキリスト教』を読みながら感じたことの一つは、やはりアジアの社会全体(当然ながら教会も含めて)を覆いからめ取ろうとするグローバリゼーションの昂進であった。富坂キリスト教センターの研究プロジェクトの中には、グローバリゼーションを対抗的に意識し、既に果実になったものもある(例えば『生き生きと農業をするための勇気』など)。今後アジアの教会が、このグローバリゼーションの圧倒的浸透にどう対峙していくのか、明確な視点の開発が求められているように思う。

(かさはらよしひさ・日本聖書神学校校長、TCC理事)




『鼓動する東アジアのキリスト教』 出版記念シンポジウム
〜東アジアのキリスト教を見なおす〜
発題T.痛みを共有することへ
東海林勤(日本基督教団稲城教会牧師)

今日の「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を学校教育の場で採択させようとする動き。それは1945年までに経験した侵略戦争の美化であり、勝つために戦争は辞さないという他国との対話を不能にするものである。

なぜ、それが今またあるのか?人の痛みへの共感の欠如から、人に痛みを与えたことを恥じる心の欠如からである。恥じる心があれば、人を痛めつけることもしなかったろう。人倫の根幹である道義に立ち返るほかに、平和はない。

本書の饒平名さんの「無条件の然り」や朴ソンジュンさんの「光」に等しいことを言い、「人の痛みを自分の痛みとするj人々に感動し、自分も連帯しようとしてきたが、その支援は同情の域を出なかったのではないか。期待や友情に対する裏切りでもあるような連帯、両義的で中途半端な連帯。キリスト者は痛みを負う民衆のなかにキリストを見るのでなければ、変わらない。


発題U.日本の「草の根」ナショナリズムとキリスト教のあいだ

駒込武(京都大学教育学部助教授)

教科書問題などに対し、歴史研究者として具体的な歴史叙述のレベルで誤りを指摘する限界。またカトリック信徒として、「教会」の活動では、「キリスト教」「教会」への問いと社会運動の展開とが別次元となっていないか。スピリチュアリティがナショナリズムに回収される「草の根」の土壌。この凍てついた「草の根」を「宣教」するのではなく、いかに掘り起こせるのか。

祝祭の感覚と技術を喪失した社会の祝祭的空間が「天皇のページェント」(T.フジタニ)によって独占されてきた。そこで、朴さんのいう祝祭的な「共同体」は(不)可能か。

本書で本田さんは「「神学」という言い方では表現しきれない、かといって、「実践」ということだけでもない。ちょうど神学的考え方が生活のなかに自然にしみ込んで、生活で表現したものがスピリチュアリティ」と述べる。適切な訳語がない外来語とはいえ、このスピリチュアリティやコンパッション(共感受苦) 《他者の苦悩への想像力》が重要である。


発題V.民衆理解と女たちの聖書の読み

横田幸子(日本基督教団塩尻アイオナ教会牧師)

神学の出発点は、苦難が集中する現代社会の低みの原体験である。人々が教会で満たされると、他の重荷を負っている人に向うより、教会を誇りに思い、いつしか教会組織を守る。神からよしとされている現実がいつのまにか、低みから高みへと移行してしまっている。だからこそ、民衆の変質を敏感に感じとった人からの発信が必要。変質への気づきを促す媒体として、この本は力を与えてくれる。

女性キリスト者グループによる女の差別から出発した場からの神学的発言や活動などをふまえると、聖書のコンテキストと自分のコンテキストを重ね合わせることが重要である。伝統神学のなかで内実を失っている言葉の内実を埋め合わせていくほうが、○○の神学というより受け入れやすいのではないか。教会は無力で微々たる歩みだけれども、教会が人々にエネルギーを与えるところとして地道な活動を続けていく。そこからネットワーキングの輪が広がっていく。


コメント「アジア人として共に境界を越えて移動しよう」

朴ソンジュン
(韓国聖公会大学NGO大学院講師・「動く学校」ムーヴメント代表)

東海林さんが言われた反省は日本の光ではないか、と深く感動しながら聞いていた。教科書問題が起こる今日への、東海林さんの言われる展望のない現実、駒込さんの言われる無力感と苛立ちに共感する。私は、キリスト教は、苦しみ、痛みを知っている人々から、御国が展開すると思う。だから、共に生きていきたい。

私が富坂キリスト教センターへ来て2年半滞在し、研究会ができ、本が出版され、本日のこのような場となった。お互いに行ったり来たりして交流することの大切さを痛感する。もう少し日本から朝鮮半島へ足を運んでほしい。国家が作ろうとしている境界線、壁を、アジア人だという広い生活の場を作ってしまって、取り払っていこう。同時代の世界で生活しているのだから、共に生きる道を探さないといけない。

お互いにボディ・ランゲージでつきあうスピリチュアリティとコンパッションのある祝祭的共同体、新しい生き方を創造しなければならない。行ったり来たり、もっと移動しましょう!


質疑・応答

◆日本の教会は祝祭をともなっているの?

・子供の頃、神社でべーリング海に漁に出る前後の漁師たちみんな、酒を飲みながらワーツと踊った。死の危険に臨む前と後の解き放たれた、あの民衆のざわめくような姿を教会ではみたことがない。そういうことができる教会の力量とは何か?

・儀式化した聖餐式から本当に、子供もみんなで一緒に食べ、という祝祭へのプロセスにある。

◆上滑りしない祝祭とスピリチュアリティ、新しい生き方を創造しよう!

・天皇制との関わりはどうなのか?在日3・4世の世代になっても、教科書問題が起こるような矛盾が矛盾として出てこない日本の文化を、キリスト者としていかに変革していけるのか。民衆や低みの視点から壁を乗り越えて、と言われるが、それはゴールであって、現実は厳しい。

・祝祭は我々の忘れた方法論を取り戻し、再出発。

◆福音は低みや痛みの共有・共感から

・神の高みからの啓示を信ずる人々とどう連帯?

・私の実感では、高みからの普段の教会のメッセージでは、釜ヶ崎の労働者たちにはまったく通じない。ほんとに低みから痛みを共有、共感するところがらイエスが語っていることを伝えると、「そうや」と言ってくれる。ただそれだけ。本を出した共通の視点は間違っていなかったことが、大阪の釜ヶ崎と横浜の寿町で確認し合えている。


新企画誕生〈みんなの場を!〉
『福音と世界』誌上討論(2002年3月号〜)

シンポジウムでは、この研究会や本のような研究者、現場、教会などを結ぶ自由な場の重要性も指摘された。研究会、本、シンポと次第に明確になってきた問題、宣教と神学について洞察を深めようと『福音と世界』で誌上討論を連載企画。2002年3月号から「聖書学は必要か?」、4月号「福音は万人のものか?」、 5月号「霊性への傾斜は後退か?」、6月号「日本の権力文化とは何か?」、7月号「キリスト教は〈一神教〉か?」など予定。

研究会の成果の書物がからし種のように、雑誌で芽吹き、厳しく、読者の皆さんの場で育てていただきたい−そういう願いを込めた試みである。





〈反響〉
『鼓動するアジアのキリスト教』を読んで
菊田 米子

一介の主婦にすぎない者には、何と重く難しい本だったことでしょう。論文を書かれた先生方には、私自身の不明を恥じつつ、お赦しを乞いながら、感じたことの一端を記します。一番共感を覚えた栗林・本田論文を中心に論じてみたいと思います。

栗林輝夫氏の論文は、マルコムXと西光万吉に焦点を当て、これまで見出せないでいた二人が光の中に引き出されて来たことを喜ばしく思いました。両者が共に最も大切なものとしたのが「誇り」だと指摘されていること、それがこの論文の頂点であると思います。「誇る」というのは、キリスト者の徳・「謙遜」に反すると思われる向きもありますが、ここでいう「誇り」はあくまでも人間の尊厳性についてのことです。いかなる人間の中にもこの尊厳が宿っていることを、マルコムXと西光は被差別の経験を通して発見したのでしょう。

本田論文で書かれていた「自分の宗教を謙虚に<相対化>できた時、諸宗教を超えたところにすべての人に共通する<よろこばしい知らせ>がある、という言葉に傾聴したいと思いました。「キリスト教の宣教」と「福音を告げ知らせること」とはイコールではないという点に特に注目します。イエスが示したのは、新しいキリスト教という宗教ではなく新しい生き方であったということ、どういう宗教に属しているかが問題ではなくて、「低みに立って見なおし」(メタノイア:視点を移す)ているか否かが問題だということは、本田神父の体験から出て来た真実の声であると思います。

渡辺論文では、聖書理解の仕方の問題が出されていましたが、研究者にのみわかるのでなく、一介の主婦であっても自由に読んでそこから慰めと力と希望を与えられるような読み方は許されるのではないでしょうか。

徐論文の中には、私が初めて接する事件が紹介されていて、それだけに自分自身の無関心の罪性に、赦しを願わねばなりません。

山野論文では、アジアの女性たちと神学することがテーマとされていて、日本とアジアのいろいろな関わり方が挙げられていました。「互いに証言しあう」「苦しみ悲しみに気付き、共振する」「相互訪問」等です。また日本の、そしてアジアの女性たちが主体的にものを考えるようになってきても、教会の中でさえ、自分の意見をはっきり言う女性は、女性の中からも排除されがちです。男性も女性も共にたゆまぬ労力と時間が必要なことと思わされました。

その他、家父長制を扱った金子論文、キリスト教美術を扱った吉田論文、沖縄からの発言の饒平名論文、民衆神学を扱った朴論文等、割愛いたしますが、各々から大変刺激を受けました。

(きくたよねこ・日本聖公会沼津聖ヨハネ教会信徒)



研究会の窓から 
「テロとコンピューター」 

日本基督教団札幌元町教会牧師 山本光一

9月11日、米国でニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンDCのペンタゴンを攻撃した、すなわち米資本主義と軍事的覇権主義を攻撃したテロ事件が起こった。

9月12日、事件のまる一日後、よほどの作戦会議を練ったと思うが、ブッシュ大統領は、演説で「これは戦争だ」と言った。彼は、頭に来て、感情的になってそう言ったのではない。テロ事件を「戦争」と言い換えて、戦争を実行するための国内法と国際法をクリアしようとしたのだ。この事件は、極めて極悪な国際犯罪であって「戦争」ではない。この事件は、国際法によって裁かれるべきものである。10月8日、とうとうアフガニスタンヘの米英国軍による空襲が始まった。戦火は拡大しつつある。カスピ海の油田を目指して。

今、世界中から武力行使への懐疑の声が挙がりはじめている。1991年1月17日に始まった「湾岸戦争」の時と10年後の今とでは、世論形成のプロセスに大きな違いがある。10年前、わたしはテレビニュースで「石油のために血を流すな」と戦争反対のデモ行進をするニューヨークの市民たちの様子を見て「ああ、あの人たちと連絡が取れたらなあ」と思いながら、しかし、適わなかった。その手段がなかったからだ。ところが、今はインターネットがある。インターネットはそもそも核戦略の必要から開発されたものらしいが、この10年間で、わたしたち市民は安価でコンピュ夕ーを手に入れることができるようになり、これによって国際平和連帯の条件を得ることができた。わたしたちは、今やどの新聞にも報道されないような、微かなる声、わたしには良心の声と思える市民の声を手にすることができる。そして、それに応えることができる。

わたしたち市民は、今、歴史に試みられていると思う。1998年のハーグ平和会議で確認されたように、政府に対抗する勢力としての市民の力がどれほどのものであるかを。無名の市民たちによる国際平和連帯の力がどれほどのものであるかを。

今夜も名の知れぬ米国の市民からのチャットがわたしに届く。

.....there are innocent people ...... women, children, farmers and  shopkeepers in Afghanistan too..... would murder them like the  terrorists murdered the people in America? (…アフガニスタンにも罪のない人々がいる、女性、こどもたち、農民、店員たちが・・・アメリカで人々を虐殺したテロリストたちのように彼らを虐殺しようというのか?)





特別講演「ダリットとキリスト教の霊性」

日本基督教団弘前南教会牧師 スニール・B・ブースイ
    スニール B.ブースイ氏は南インドのルーテル派牧師、神学校の教師を経て、現在、日本に来日して2年。インドでダリットの研究をしていたが、日本の被差別部落民の研究もあわせてしたいと、来日。受け入れ先は教団の部落解放センター。国際基督教大学博士課程後期に在学中。富坂奨学生でもあるスニール氏に、今年のプログラム委員会(2001年9 月4-6日)の特別講演をお願いした。以下はその要約である。

インドのユニークな特質に、ヒンズー教によって、是認されたカースト制度があります。ブラーミン(祭司)、クシャトリヤ(武士・支配者)、バイシャ(商人・職人)、スードラ(奴隷)の階層に分かれ、これ以外の人々が、アウト・カースト、不可触賎民と呼ばれるダリットで、インド人口10億人の16%にあたる1億6千万の人々です。ダリットのもともとの意味は「抑圧されたもの、破壊されたもの」というもので、今日、自らを「ダリット」と呼ぶことは1970年代から始まりました。この言葉が、ダリットの実存的現実を表しており、同時に希望の表現であるからです。

ダリットの特徴として次の四つが挙げられます。@清浄と不浄‥‥地域の中で清浄な地域・ブラーミン、不浄の地域・非ブラーミンとダリットと三つの地区に分かれています。ダリットは不浄なものとされているので、宗教儀式、学校、公的な場所、メイン・ストリート、上部層の敷地内を通りぬけることも許されていませんでした。A貧困と遅れ‥‥経済的差別、職業差別が存在します。ダリットはいわゆる「穢れた」仕事にしかつけません。職業選択の自由はないし、また、そのゆえの偏見に苦しめられます。B非識字と無知‥‥今日までダリットの人々に教育の機会は少ししか与えられず、教育への意欲は奪われてきました。C日常生活における差別‥‥現在、ダリットヘの差別は憲法で禁止されているし、インド政府による優遇政策も取られています。しかし、新聞でダリットが被害者となった、殺人、強姦暴力事件を見ない日は一日もありません。

聖書で語られる「神の似姿」が破壊されている状況で、ダリットのキリスト者もこのような苦難に終わりはないのか、という絶望の感覚にしばしば捕らわれます。しかし、心と意志において、調和と一致をもたらすことの必要を聖書のメッセージとして聞き、勇気づけられています。その中で、単なる社会運動ではなく、人間の尊厳を回復する運動や新しい霊性が生まれてきています。霊性の定義は様々ありますが、私にとっては「内なるヴィジョン」です。それは人生の地図。それによって、生きることの使命や意味を理解します。私達が意識している以上に、私たちは霊性の中を生きています。それに基づいて、内省し、実存の深みに触れ、また行動を決定します。宗教性の核にあたるものが霊性であり、世界の価値を知らせてくれるものです。それは生きている様々なものを調和させ統合してくれる働きを持ち、生きることの全体性に一致と焦点を与えてくれるものです。過去において、慈善、社会運動、開発という中でキリスト教の霊性は展開されてきましたが、それは自由と正義のための闘いにはあまり寄与しませんでした。正義と自由のための戦いに参与することが霊性に生きることである、と私は理解しています。霊性はまた神の民のいのちの息。神の国の正義に導くもの。正義を行うことは神を知ることでもあります。

私は神の宣教としての霊性を語りたいと思います。聖書の中心的メッセージば神、人、自然の中にあった契約が壊され、罪の状態にあった被造物がそこから解放されるというものです。神が与え、そしてイエスによって回復され、満たされたいのちを喜ぶこと。満たされたいのちとは、人間の尊厳、自己決定権等をすべて満たしています。

「不正義や飢えやあらゆるいのちへの攻撃はすなわち神への攻撃である。」(グティエレス)

 (Suneel B.Busi)



上海悠々・余滴(その2)
〜「大東亜戦争」の亡霊〜

葛谷 登

二年ぶりにこの八月に上海を訪れました。この夏、歴史教科書をめぐって議論が百出しましたが、歴史教科書よりも中国旅行のガイドブックにまず眼を向けたほうが好さそうにも思えます。歪んだ情報を事前に入手し、中国に行ってからは写真撮りと買い物と食事だけに専念するような観光旅行では、そうした事前の歪んだ中国像が修正されるようなことはおよそ期待出来ません。

杭州の西湖を夜、遊覧船に乗っていたときのことです。ここでも日本人観光客が景色の美しさに感動の余り、写真をパチパチ船の欄干から身を乗り出して撮っていました。のんびりと夜景の美しさに見入っていた周りの中国人は「日本人だ、日本人だ」とひどく困惑したような声を発していました。勿論、この「日本人だ、日本人だ」という言葉は中国語で言っているのですから、写真に夢中な日本人観光客に分かるすべもありません。かつて杭州は日本の岐阜師団の占領下に置かれたそうです。杭州から撤退せざるを得なかった中国の軍人、兵士にとって美しい西湖を携え去ることの出来なかったことがどんなにつらかったか。日本軍に西湖が鑑賞されることは野蛮な民に愛娘が乱暴されるのと同じ思いで捉えられたに等しいように思われて来ます。両者の視点の落差を思わされます。

上海から鉄道で蘇州、杭州に赴くとき、途中窓外に展開するのは緑また緑の広大な水田風景です。中国には、「蘇州と杭州が実れば、天下足りる」ということわざがあるのを思い出しました。世の中にこんなに見事に美しい田園風景があるものなのか、わが眼を疑います。この緑野がある限り、中国は安泰です。中国共産党の宗教政策は確かに問題が多いとは思いますが、自前の農地解放をなし遂げた功績は特筆大書してあまりあると思います。人はパンだけで生きることは出来ませんが、パンがなければ生きることは出来ません。

有名な龍井茶の産地杭州のお茶屋さんでお茶を買ったときの話です。8月15日位だったでしょうか。お茶屋さんのテーブルには指を切断して小泉首相の靖国参拝に抗議する韓国の青年の写真が掲載された新聞が置いてありました。わたしが日本人であることが分かると三十前後の若い店の主人が声をふるわせて訴えました。「中国の人民は小泉の靖国参拝に対して憤りを感じている。日本の軍隊が中国でやった蛮行を知っているのか。罪のない老若男女の市民を何十万も惨殺したのだ。日本の軍隊は、「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くし」(三光作戦)たのだよ。君は日本に帰ったら、中国の人民の声を伝えてくれ。そしてこういう厚顔無恥(無知でもあろう)な政権を倒してくれないか。わたしは中国の一般市民を惨殺した日本の軍人、兵士が神として祀られていることを許すことが出来ない。靖国神社の存在そのものが到底容認出来ないのだよ。」

わたくしは、温厚そうなお茶屋さんの青年の変化に圧倒されました。買い物をすませ、店を出た後もこの問いかけはずしりと心に残りました。中国の宗教政策は未だに閉ざされたままであると言えるかも知れないが、日本のキリスト者は裏側から伝道する道を模索するのではなく、何よりもまずカトリックとプロテスタントが手を携えて、戦争で犯した罪を謝し、中国の教会と人民に対して賠償を支払うよう日本政府を動かすことに力を尽くすべきではないでしょうか。賠償なくして和解はない。




シリーズ@ひと・ひと・ひと
 劉小楓さん Liu xiao Feng

TCCに、外国からのゲストや研究会のため上京する関係者のゲストルームがある。ここのゲストとしてほぼ一ヶ月滞在した劉小楓さんに話を伺った。今回、東京大学付属東洋文化研究所の招きで、学術交流のためご夫婦で来日された。

劉さんはもともと、北京大学で19世紀の欧米文学・哲学を専攻し、それを通じてキリスト教の信仰に触れた。その後北京大学で教える傍らキリスト教の研究を始め、留学したアメリカの長老派の中国人教会で洗礼を受けた。その後スイスのバーゼル大学に留学し、博士号を取得し、現在に至っている。

中国の教会は、ご存知のように政府の管理下にある公認の教会と非公認の「家の教会」とがある。かつて中国でクリスチャンとして生きることは、社会的に不利益を被る面もあったが、今は益々キリスト教の活動は社会的に受け入れられ、信者も増えている。

その中で劉さんが学術総監督を務める香港の「漢語キリスト教研究所」の働きは、信者を増やすという宣教に目的があるのではなく、文化・芸術・教育の分野で中国の知識人に働きかけ、キリスト教研究を深め、キリスト教にシンパシーを持ってもらう層を広げることである。もともとこの団体はノルウェーの宣教団体が作った「道風山キリスト教センター」の組織改変で設立された団体である。

そこには三つの活動の柱がある。一つ目はキリスト教古典の翻訳(すでに百冊以上を出版)。二つ目は中国大陸においてキリスト教思想・歴史・文化について講義。三つ目は学術雑誌の発行である。今回の日本訪問についての感想を次のように述べた。「印象的だったのは、キリスト教研究の蓄積の広さ、深さです。日本でキリスト教の社会的影響はそれほど大きくないのに」という。現在TCCの天皇制の本を翻訳する計画を進めている。終始、真面則こ質問に答える姿が、とても印象的な方であった。

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