『富坂だより』 12号
2003年12月

特集:諸宗教間の対話

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下北半島の恐山の三途の川を渡った研修生たち


巻頭言

賢い不服従

山本 俊正


作家の落合恵子さんによると盲導犬の世界には「賢い不服従」という言葉があるそうです。本来飼い主に服従すべき訓練を受けた盲導犬がこの道を行くと大きな危険があると察知したとき、飼い主に「行け」といわれても、しらん顔を決め込んで不服従を貫くことを言うのです。

1997年以降、日本は日米ガイドライン、日の丸・君が代、周辺事態法、有事法制、イラク特措法等々、「戦争のできる国」になるための法整備を進めています。憲法の「改正」や「徴兵制」も現実的な議論として浮上しています。このような状況に対して、私たちはキリスト者として、一市民として、宗教者として何ができるのでしょうか。

キリスト教における絶対平和主義の伝統を守るグループとして「再洗礼派」の流れを継承する「平和教会」と呼ばれるアメリカのクエーカー教徒やメノナイトの信仰者たちは現在も、良心的兵役拒否を貫いています。アメリカでは南北戦争において聖書と良心に基づいて徴兵拒否を貫いた「平和教会」の人々の実践によって良心的兵役拒否の制度が各州の憲法や諸規程の中に盛り込まれました。アメリカでは第二次世界大戦の時、6千人が良心的兵役拒否をしています。また第二次世界大戦以降、ドイツでも、国の基本法の中に自分たちが徴兵にとられるときに、徴兵として何年間かの兵役訓練をうけるか、あるいは病院や社会福祉施設で同じ年数を働くかが選択できるようになっています。

ドイツでは1999年に17万4千人の若者が兵役を拒否して市民的奉仕活動をしています。(同年の兵役者は11万2千人)。ドイツの高齢者介護施設で働く人口の11%が良心的兵役拒否者で、ドイツの社会福祉を支えています。「自分たちは戦争に荷担しない」ということが、法律によって保障されているのです。日本では第二次世界大戦の時、「ものみの塔」のグループの人たちで作っていた「灯台社」の人たちの何人かが武器を取ることを拒否しています。今後、日本でも「賢い不服従」が必要になってくるのではないでしょうか。

(やまもととしまさ・TCC理事)




EMSとNCC宗教研究所(京都)の共同プログラム
ヨーロッパノ研修生が体験した東京、仙台、青森の研修旅行

ドイツ福音主義教会牧師 ミヒャエル フレーリッヒ


東京と青森への旅行は、日本におけるドイツ人3名、オランダ人1名、ノルウエー人1名という小グループの研修滞在の中でも、これまでの日本滞在プログラムの中では、疑いもなくハイライトであった。この旅行は富坂キリスト教センターの太っ腹な支援によって可能となり、初めから終わりまで非常に良く、また効果的に企画されていた。振り返って見ると、われわれがこんなに短い期間に、こんなにも多様な、しかも集約的な印象をものにできたと言うことはほとんど考えられないことである。

10月6日、富坂センターでの暖かな出迎えの後、カトリック神学者、高柳教授の日本のカトリック神学について、またマリンズ教授の日本の宗教と教会についての講義があった後、同じ日に新幹線で青森に向かった。そして翌日は朝からレンタカーで恐山に向かった。そしてその途上、車の中で早くも畠山教授の講義があった!仏教の僧侶から寺院のすみっこを借りたイタコが、その宗教儀式を執り行う様子についてであった。

気味が悪く同時に魅惑的なその場所のすばらしい雰囲気は、われわれ全てを魔境に導いた。硫黄の臭い、火山岩の色、大量の黒いカラス、そしてもちろん巫女、風で傾いた貧弱なテントに座って、柔和に微笑みつつ、忍耐強く、宗教儀式を受ける顧客を待っている。手探りと会得の古代的宗教性。

その夜は、青森で教団の牧師たちと懇談の時を持った。日本の宗教的基層への旅の後では、それは「ほっとしたひと時」であった。すばらしい夕食を共にした後、集中的に、おのおのの国の牧師や伝道師の教育制度について意見交換を行った。その晩は、伝統的な温泉でその日の充実したプログラムから全く解放されたひと時を楽しむことができた。そこで富坂キリスト教センターの責任者と一緒に、温泉の中でくつろいだような時を、われわれは一体いつ持ったことがあるだろうか。それは鈴木牧師の行き届いた配慮であったが、東京でのすばらしい夕食も含めて、全く圧倒されてしまった。

さらに、ここでは情報交換やおもしろい意見交換のための豊かな機会が与えられた。荒井牧師もいたるところでユーモアに満ちた、専門家肌の世話や旅行の世話をしてくれた。荒井牧師はわれわれを仙台で出迎えてくれた。そこで仙台学生センター(エマオ)ハウスを知った。センターの設立事情や注意深い宣教的付帯事業はわれわれには非常に印象深かった。翌日、浅見教授が自宅で日本のカルト宗教についての概説をしてくださった。統一協会のたくらみと戦っている教授の個人的な関わりについての講義は、常識では考えられない事柄であった。 東京にもどって、われわれは靖国神社とその付帯施設の「戦争博物館」と対決させられた。

広島と長崎のずっと冷静な平和記念博物館と、この戦争を再生している博物館のなんという相違!

鎌倉では、荒井牧師が伝説的な仏教寺院や神社を案内してくれた。銭洗弁天でわれわれは自分の持っていた小銭を、その伝説的な風習に従って泉の水で洗った。それはこの世の物欲や金銭欲などの欲望から解放されるための儀式だったのか、それとも物質的安定のための(偽りの)幸福を招き寄せるためのものだったのかは、はっきりしなかった。

荒井牧師の家で豊かな夕食を共にした際、緊張から解放されて、我々と学生は、そこにあった各国語の絵本の収集の中で、母国語の絵本を無意識に母国語で朗読した。そうしたら、それを聞いていた荒井牧師の2人の小さな子供たちがすっとんきょうに笑ったのだ。それが驚いたことには、最も適切な箇所で笑ったのだった。そこで、双方のうんちくを傾けた分析が始まったのだが、結論は、絵本のような心に響くものには意思の疎通ということが本当にあるのだ、ということだった。

意思の疎通というテーマは次の日にも出て来た。キリスト教神学者と立正佼成会という新宗教の代表の間で、諸宗教間の出会いの場が富坂キリスト教センターで企画されていたのだ。京都のNCC宗教研究所が主導したそれらの交流の存在とその実現の意味するところは明らかであった。同時通訳的なすばらしい通訳の働きで、われわれは日本語で交わされた程度の高い議論にも参加できた。翌日の日程で、立正佼成会本部を訪問した時、われわれの旅の最後の日に、日本の宗教文化に対する新しい観点を得ることができた。

少なくともわれわれの感じでは、(社会参与の強調から、オルガンやコーラス、本部講堂の「ステンドグラス」など)、多くの異なった場所で、跡付け可能なキリスト教的影響を見出したことは驚きであった。また、プロの域に達しているこの新宗教の宣伝方法や国際事業などが印象的だった。

そこで、われわれ全てのヨーロッパからの参加者は、われわれがこのようにも豊かな研修旅行に参加できたように、同じような友情と同じような参加の仕方で日本の研修生をわれわれの国でも歓迎したいと心から考えている。

とにかく「途方もなくすばらしかった」。 2003年10月





シンポジウム報告 
『女性キリスト者と戦争』―平和な世紀をつくる―

奥田 暁子


2003年7月21日、富坂キリスト教センターで『女性キリスト者と戦争』(行路社)の刊行を記念して、シンポジウムが行われた。この本は同センターのプロジェクトの一つ、キリスト教女性史研究会の5年間におよぶ研究会の成果をまとめたものである。参加者は約50名、女性がやや多かった。キリスト教関係の人びとだけでなく、女性史研究者やフェミニズムに関心のある人びとの姿もあった。シンポジウムは午後2時に始まり、第一部は花崎皋平、加地永都子両氏の講演、休憩をはさんで第二部は執筆者側から大里喜美子、早川紀代、加納実紀代の三氏が発題した。その後、参加者との質疑応答があり、午後5時過ぎに終了。司会は荒井英子が担当した。以下にシンポジウムの内容を簡単に紹介する。

第一部 

花崎皋平氏(哲学者・ピープルズプラン共同代表)はかつて富士見町教会に在籍していたこと、「キリスト者平和の会」で出会った戦争中の抵抗者たちは生涯の師であることなどについて自己紹介をされた後、本題に入られた。 まず、戦争中のキリスト教の神学については、信仰と服従、教理と倫理を分離させ、戦争責任を自分たちが負うべき責任の領域外のことと考える二元論に陥ったのだという見方もあるが(たとえば井上良雄)、むしろ天皇制国家主義とキリスト教との一体化を求める傾向、すなわち日本的キリスト教という傾向の方が強かったのではないか。国民としてのキリスト教信者は国民国家に内接して、国家に奉仕するという考え、すなわちキリスト者の道徳的倫理的高潔さが、よりよい国民として、よりよく献身できるという位置づけがあった。その意味では執筆者(奥田暁子)の「苦し紛れ」という解釈は甘い評価だと思う。

植村環の例を見ても、日本の伝統的な宗教観念(人が死んで神になる)ときちんと切れた神観念であったのかを疑わせる言説が見られる。むしろ積極的に国家主義に加担するという姿勢が窺われる。植村に限らず、日本のキリスト者の多くは絶対者の超絶性という神観念ではなかった。

中川晶輝著『ある平和主義者の回想』には富田満統理の「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」が添付資料として収録されているが、これはキリスト教界が徹底的に自己批判すべきものだと思う。神の意思を恣意的に忖度して、自らの正義・主張を補佐させるという逆転したあり方である。

日本的キリスト教を生み出すという努力は両義性を持つ。輸入神学を権威にして正統性を守るだけでは現実から遊離していく。その反面、現実の権力に妥協し、その範囲内に教義や実践を適応させるのでは魂を損ない、本質的な主張を失うことになる。「無主・無縁」の姿勢を大切にすべきだと思う。つまり、現世的な主に根本的な批判を持ち、有縁の共同体に拘束されるのではなく、無縁の民衆の中に身を置いて、権力によって支配される民衆と共に闘うなかで、そこから生まれる思想・信条に支えられながら、それを支える信仰の表現を大切にして行くべきではないか。

ジェンダー分析としては本書から特徴を見つけることはできなかった。とくに昭和期になると、都市中間階級の知識人のファミリーがプロテスタントになる例が多かったのではないか。近代化を啓蒙・推進する立場であった彼女たちには近代家族のジェンダー・イデオロギーがかなり強かったのではないか。キリスト教の服従や奉仕の倫理が女性キリスト者にどのように受けとめられたのか、あるいは批判されたのか、女性牧会者とはどんな立場にあったのかも含めて知りたかった。これは社会認識と信仰、知識と信仰に関する考察を必要とすると思う。

加地永都子氏(日本YWCA幹事・翻訳家)は、本書の荒井英子論文「植村環−時代と説教」だけに焦点を当てると前置きして次のように話された。 YWCA80年史の編纂の時点では戦時下の『女子青年界』の内容は問題になったが、それをどう客観的に取り上げるかの結論は出なかった。

80年史に戦争責任についての記述が少なかったことにはいくつか原因があるが、一つはずっとジュネーヴの古文書館に眠っていたウッズモールの報告書が出てきたことがある。1941年に来日したウッズモールは当時世界YWCAの総幹事で、非公式に日本に派遣され、日本YWCAの指導者たちと長い話し合いをした。ウッズモールの報告書には『女子青年界』に見られる好戦的な論調とは一致しない、戦時下の悩める指導者たちの姿が書かれていた。80年史にはそれを全面的に収録したために、他のことは後回しになった。もう一つの要因は、YWCAにおける植村環の絶対的な存在である。YWCAのなかでは長い期間会長であった植村環の存在がきわめて大きく、批判を許さないような雰囲気があった。

連続と断絶ということでは、YWCAの歴史は見事に連続していると思う。戦後すぐYWCAはGHQから用紙の配給を受けて、『女性新聞』という一般紙を発行した。「創刊の辞」を植村が書いているが、日本のこれからの民主化の先頭に立つのは女性であると、「女性」を強調して「行け行けどんどん」の姿勢が顕著である。「東亜新秩序」が「民主主義」に変わっただけという印象を受ける。

15年戦争下のYWCAの歴史を検証することは自分たちにとっても絶対不可欠である。現在手がけている100年史の編纂には外国人幹事の報告書や朝鮮YWCAの資料を読み直し、それを100年史に生かさなければならないと話し合っている。

第二部

第二部は執筆者の側から大里喜美子、早川紀代、加納実紀代がそれぞれ10分間ずつ、各自の書いたテーマを補足する話をした。大里は自らが15年戦争の悲惨を味わった世代であるが、1955年にフィリピンに親善使節として行き、アジアにおける日本の戦争行為の実態を知った。被害者としてのキリスト者、加害者としてのキリスト者の両面を経験する時代に生まれたひとりとして、皇国教育に回収されたキリスト教保育連盟からの圧力がある中で、青山学院幼稚園の田村が断固としてキリスト教教育を続けたことを高く評価していると話した。

早川紀代はキリスト教の外部から戦争とジェンダーを考える一例としてキリスト教矯風会の活動を取り上げたのだと語り、矯風会が日本国家の近代化と歩みをともにしてきたことを指摘した。早川によれば、明治政府の指導者も啓蒙思想家も近代化イコール文明化ととらえていたが、それは矯風会も同じであった。矯風会にとっては一夫一婦の家族をつくることが文明化の中身であった。15年戦争下では完全に大東亜共栄圏の考え方と一致するようになり、日本の侵略戦争を前提とした「日支婦人の親善」に邁進した。戦後も結局は一億総懺悔の姿勢からは解放されなかった。1985年に刊行された『矯風会100年史』の段階になって、初めて姿勢が変化し始めた。

加納実紀代は、「従軍慰安婦」問題が韓国の女性から提起されるまで、日本のフェミニズムの側が問題にできなかったのはなぜなのかをずっと考えてきたが、それは植民地意識を日本の女たちも体現してきたからではないか。そのような問題意識から、第一波フェミニズムの時期に第二波フェミニズムを先取りするような視点を持っていた小泉郁子の生き方に関心を持ったのだと話した。しかし、加納によれば、小泉も帝国のフェミニズムから解放されてはいなかった。結論として言えることは、ジェンダーの視点を持つだけではだめで、民族・国家の視点、階級の視点を合わせ持たなければ、帝国のフェミニズムから解放されないのではないか。そしてこの問題は過去のことではなく、現在、アフガンやイラクで活動するNGOに関しても、どのような姿勢で支援を行うかが重要である。

その後参加者から質問や感想などが出された。そのうちのいくつかを紹介するならば、戦後の出発点において行われた「記憶の操作」についてはさらに解明がなされるべきである、キリスト教界全体がまだ戦前と戦後の連続性の問題をきちんと解明していないのではないか、キリスト者を含め日本の女性たちに見られる脱亜の姿勢がなにに基因するのかをもっと深めて欲しい、エリート女性キリスト者だけでなく無名の女性キリスト者の動向も掘り起こして欲しいなどがあった。花崎氏が最後に提起された市民的不服従の問題を含め、もう少し時間があれば、白熱した議論が展開されたと思われるが、今回は時間切れで、つっこんだ話し合いにならなかった。次の機会を期したい。





OAM(東亜伝道会)の伝統を受け継ぐということ

 武田 武長

AEPMV(Das Allgemeine Evangelisch-Protest-antische Missionsverein=後にOstasienmission=OAM)がドイツのワイマールで創立されたのは1884年のことであった。来年はその創立120周年記念式典がゆかりの地ワイマールで開催される。

この伝道会は、1885年から日本でもその宣教を開始し、明治以降の日本プロテスタント教会史にその独特の足跡を残している。注目すべきことに、派遣された宣教師たちは「国籍を天に持つ」キリスト者として、ドイツ人もスイス人も文字どおりナショナルな枠を超えてOAM日本宣教師として活動した。

その原則が破れたのは、20世紀に入ってドイツにナチ政権が成立し、ナチズムと結びついた<ドイツ的キリスト者運動>によって支配された教会外務局の監督下にドイツ人宣教師たちが置かれるようになったからである。

そのことによって生起した二つの歴史的帰結について確認しておきたい。それは、富坂キリスト教センターの置かれている位置を認識し、その方向を明確にしておきたいためである。

一つは、ナチ支配下のドイツの教会外務局の監督下に立つことを拒否したOAM日本宣教師でドイツ人牧師エーゴン・ヘッセルのことである。ヘッセルはOAM 宣教師として1931年に来日し、主に関西を中心に活動し、神戸にあったドイツ語教会を牧していたが、その後起こってきたナチズムとドイツ的キリスト者運動に批判的であった。彼はドイツ的キリスト者運動が支配的になった神戸ドイツ語教会牧師を解任され、さらにOAM宣教師としての職務をも失った (1936)。ドイツ帰国を望まなかったヘッセルは、ドイツ告白教会の日本宣教師としての職務を得て(1937)日本に残るが、その間に病気の妻を失い、失意のうちに関西に戻り、そこでアメリカ人宣教師の娘と再婚する。しかし、ドイツ軍への兵役を拒否して在日ドイツ大使館への出頭を拒み、ドイツ国籍を剥奪され、日本出国を余儀なくされた彼は、再婚した妻の家族と共にアメリカに行き、アメリカ国籍を得る。日本敗戦後、GHQの米軍通訳として再来日したヘッセルは、ナチ支配下のドイツ教会外務局の監督下で日本で活動し残っていた二人のOAMドイツ人宣教師の存在が、米占領軍によるOAMの土地建物の没収につながる恐れがあるとして、その二人のドイツ人宣教師の追放に加担することになった。

二つめは、日本敗戦後米軍占領下で、OAMの日本にある財産を占領軍による没収から守るという理由で、財団法人キリスト教イースト・エイジャ・ミッションを設立した(1946)のは、そのヘッセルであるということである。米軍占領下の戦後日本でOAMの活動を再開するためには、戦争中からすでにナチ・ドイツに批判的立場を取っていたスイス人宣教師たちがその任を担うほかなかった。そのようにしてSOAM(スイス・東アジア・ミッション)は成立したのであった。

SOAMの成立は同時にDOAM(ドイツ・東アジア・ミッション)の成立をもたらした。 実は、富坂キリスト教センターの将来構想が投げかけた問題は、ようやくDOAMとSOAMを、OAMの共同の法的後継者でありOAMの遺産をその一体性において守る責任があるという認識に導いていったのである。「土地は主のものである」(レビ記25:25)という神学的理解において、センターもそのことを認識する。権利上は(de jure)まださまざまな段階を踏まなければならぬとしても、事実上は(de facto)、WCCニューデリー総会の原則に従って、その地にあるOAMの遺産をその一体性においてその地にいるキリスト者たちが「主にゆだねられたもの」として福音宣教のために用いるのである。そこではもう既に「主に対する服従におけるパートナーシップ」は事実上実現しているのである。

この事柄の相互了解が、今年夏に行われたスイスのロマンスホルンでのTCCとDOAMとSOAMの3者協議会の成果であった。 

(たけだたけひさ・TCC理事長)



第1回八甲田牧師研修開催される

渡辺 兵衛

第1回富坂キリスト教センター八甲田牧師研修が10月2日〜8日、日本基督教団八甲田伝道所を会場に開かれた。“牧師として最も基本的なことを共同生活の中で互いに学び合う”を目的とした富坂キリスト教センターの新たなプロジェクトの最初の試みであった。

昨年8月企画委員会が設立、12月には現地委員会が発足し、両委員会が連携しながら準備を進め、上記の日程と場所で「主を畏れ、主に仕える」を主題として開催することになった。当初は10日間のプログラムを立てたが、牧師が長期間教会を離れることは困難との声を多く受け、7日間に詰めて実施することにした。それでも参加を得ることは容易ではない日本の教会の現実状況の中で、「これまでにない全く新しい牧師研修」の呼びかけに応えてくれた6名の参加者(部分参加含む)が与えられ、スタッフ合わせて10数名で開催することができた。

会場は八甲田山の中腹、海抜800mのすばらしい景観の中に5年前新築された山小屋風の会堂で、テレビも新聞もなく、食事作りも含めてすべて共同作業ということで、どんな一週間になるか、正直なところ心配も無くはなかった。しかし、終わってみて、研修の内容についても、また会場についても、「たいへん良かった」という評価が全員から寄せられた。

プログラムの大まかな流れは以下の通りである。

2日(木)、開会礼拝で池田伯氏が主題について、詩編130編等のテキストから語った後、各自の問題意識が提示された。夜は八甲田伝道所の礼拝に合流した。  

3日(金)、「宣教課題としての“農と食”」をテーマに武岡洋治氏の発題を通して、アフリカの砂漠化問題に取組み、薬害の被害から立ち上がり、「いのちの回復」の福音宣教に身を献げている姿にふれた。午後は松村重雄氏の指導でキムチ作りの実習。

4日(土)、「牧師として聖書を読む」。池田伯氏、渡辺正男氏の発題の後、共同討議を行った。特にルカ17章11〜19節をめぐる議論は、今回の研修の中で最も白熱したものとなった。

5日(日)、青森市内の教会の礼拝に出席し、午後三内丸山遺跡を見学、夜は斉藤利男氏の特別講演「奥羽の風土と歴史」を聞き、“北”からの視点による日本の歴史に目を開かされる思いをした。

6日(月)、「キリスト者の霊性について」大庭昭博氏は、自身の牧師現場での経験やボンヘッファー神学の学びの中から、人間の霊性が罪責と深く関わることを指摘した。この日は奥羽教区北西地区牧師会が合流し、共同討議をした。

7日(火)、「キリスト者の霊性」の続きとして、礼拝の形式及び聖餐の問題を取り上げ話し合った。午後は絶好の日よりの中、八甲田山ロープウェイで素晴らしい紅葉を満喫した。「諸宗教間対話」研修生たちと夕食を共にし、交流のひと時を持った。

8日(水)、「全体のまとめ」として一人ひとりがこの研修の意義を語り、松村重雄氏による閉会礼拝をもって7日間のプログラムを終了した。

中年を過ぎた者には一週間の合宿は容易ではないだろうと“覚悟”をもって臨んだが、不思議なほど疲労感はなく、快い、充足した思いで終えることができた。ゆったりとした時間の流れの中に身を置き、老いも若きも年代を超えて率直に語り、心を傾けて聴くという受容的雰囲気があったからだと思う。また地元でとれた野菜をふんだんに使った食事もよかった。「共につくり共に食べる」という経験はホテルなどではとても味わえない。そして全員が一致して挙げたのが八甲田伝道所の景観美だった。遠く岩木山や白神の連峰に夕陽が沈む光景に息をのむ思いをし、自然のもつ力を再確認させられた。

地域の特性を生かしたプログラムを立てたことは良い評価を得た。主題の「主を畏れる」こと、また「霊性」について、その内実を深めることは今後の課題であろう。上記の通り「牧師として聖書を読む」の時間が最も充実した議論が交わされた。共に聖書を読み、説教へと展開する過程をも共有することを次回には期待したい。牧会者としての個人的な問題をみんなで考える時が欲しかった、との声もあった。共同生活をすることによって人格的な出会いが可能となる。いちばん大事なものは、そのような人格的なふれ合いの中で伝えられていくのだと思う。

(わたなべ ひょうえ・牧師研修八甲田委員会主事)



シリーズ ひと・ひと・ひとD
  「いのちの電話」  斎藤友紀雄 さん

「日本でいのちの電話を始めたのは1971年10月1日でありました。いのちの電話を作ろうと最初に言い出したのがヘトカンプ師(Ruth Hecamp・ドイツ人宣教師)でした。私もその時、集まった人の一人であります。1973年にはいのちの電話のボランティアセンターを造り、富坂キリスト教センターに置かせて頂いて、私もそこに住むようになりました。ですから創立時代からヘトカンプさんを中核に富坂キリスト教センターとの関係を持っていたということです。初期の活動を含めて約18年間、富坂キリスト教センターでいのちの電話の一部の活動が行われたことになります。」と語る、斎藤友紀雄牧師は日本におけるいのちの電話の創立者の一人であり、その事務局長や常務理事として32年間勤められて昨年の7月をもって定年退職された。

「いのちの電話の初期の頃は自殺を予防するという考えが政府にも民間にもありませんでした。当時は高度経済成長の中で青少年の自殺率が多くありました。地方から都会の工業地帯に集まって来た若者たちは、皆孤独で、情緒的な問題を抱えていました。彼らを支えて行こうとしたのがいのちの電話を始めた動機でありました。現在は自殺者の年代がかつてとは違って、40代、50代の方が非常に多くなっています。」と語られる内容から今日においても自殺予防へのいのちの電話の働きは初期と変わりなく貴重なことであることが伺われた。

いのちの電話への感想を伺った。「これほど大きい規模で日本のキリスト教会がエキュメニカル的なレベルで社会的な奉仕活動を30年に渡って構築してきたというのは、高く評価してもいいのではないかと思います。そして、ボランティアレベルで心をケアする市民活動を築いたという意味では、画期的な意味をもっていたという風に思います。その活動はキリスト教主義にこだわらず、市民運動として構築してきたと思います。」

「富坂キリスト教センターはそれ自体が運動体より、いろんな研究活動をされて、教会はもちろん社会的にもいったい日本にとって今、いちばんの問題は何かということをいつでも発信し続けてきたことを大変素晴らしいと思っています。その中でいのちの電話に対しても支援して頂いて感謝しています。」斎藤牧師は以前富坂キリスト教センターの牧会心理研究会のメンバーとして『心の病とその救い』(新教出版社)を共同執筆され、現在でも日本いのちの電話連盟の常務理事として、又日本における「いのち」と関わる多くの働きをしておられる。

因みに、いのちの電話の現在は相談員が東京に約400人、全国では約8000人の方々が活動され、相談センターは東京に3箇所、全国では51箇所あり、相談件数は年間東京が約2万7千件、全国で約70万件。そして、全国の半分以上のセンターが24時間体制で相談を受けているそうである。

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