『富坂だより』 16号
2005年12月

特集:富坂キリスト教センター30周年U

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赤司繁太郎牧師宅を訪ねたヘッセル牧師夫妻(1932年)




巻頭言

煉獄と靖国神社

アンドレアス・ルスターホルツ

去る10月31日は宗教改革記念日であった。その際、関西学院大学文学部のチャペル・アワーで、免罪符などについて話し、煉獄とは何かを説明した。当時、ルターは煉獄の存在を徹底的に拒絶した。この場で、煉獄の概念を復権させるつもりはないが、靖国神社でA級戦犯が祀られていることを背景に、煉獄概念の特徴に注目してみたい。それは、死者と生きている者の関係ということである。ドイツの社会保障制度用語を使うと、それは死者と生きている者の“連帯共同体”(Solidargemeinschaft)である。罪を犯した者は死後地獄に落とされることなく、煉獄で浄化されることによって天国に行くことができた。生きている者でも死者の状況を変えることができ、執り成しの祈りを通して助けることが可能であった。これがさらに免罪符の存在を黙認した。免罪符の濫用は別として、キリスト教徒は今死者として煉獄にある誰かのために祈ることができ、そこに連帯共同体が成立した。この連帯共同体においては、死者を拝むことも、死者を鞭打つこともしなかった。

さて、首相が靖国神社に参拝する背景もしくは前提は、死者と生きている者のある種の共同体だと言えるのかも知れない。だがこの共同体は、国家を代表する首相がA級戦犯をも祀る神社に参拝するという点において、キリスト教中世の連帯共同体と決定的に異なる。祀られた個人の履歴は、参拝とは何の関係もないというのが、首相の解釈らしいのだが、これは戦争責任を隠蔽することに過ぎない。祀ることによって成立する共同体は、ましてその共同体の一部である被害者となった人々に対する責任を逃れることはできるはずがない。

キリスト教中世の連帯共同体の概念が間違っているとしても、自分の責任に重点を置いた面は評価できる。祀ることによって成り立っている共同体が、責任を無視するきっかけを提供するのは、非常に残念である。それは祀ること以前の問題なので、首相が参拝を止めても、問題は解決しないことは言うまでもない。(ルスターホルツ・アンドレアス・TCC総務理事)

(Andreas Rusterholz/TCC総務理事)




富坂キリスト教センター30周年記念会

ヘッセルと戦後処理

同志社大学教授 水谷 誠


 2005年4月23日(土)、富坂キリスト教センター1号館で、東アジアミッション(AEPM「普及福音新教伝道会」、後にOAM「東アジアミッション」と改称)創立120周年記念、富坂キリスト教センター(TCC)設立30周年記念の会が催された。本稿では、ドイツ東アジアミッション(DOAM)会長パウル・シュナイス牧師によってなされた記念講演に引き続いてなされた質疑応答を紹介する。

シュナイス牧師は120年にわたる宣教会の活動を、およそ30年ごとの四期に分けて案内された。1)当初のAEPMの時期、2)第一次世界大戦から OAMと名称が変更され、第二次世界大戦終結にいたる時期、3)その後の混乱ととまどいの時期、4)1975年以降の、富坂キリスト教センターの設立と新たな事業展開の時期である(詳細は『富坂だより』第15号の報告を参照)。

最初の質問は、第二期の第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたる時期、ドイツではワイマール共和国を経てナチスが政権を掌握した時代に、日本での宣教師の活動や日本側の反応はどのようなものであったのか案内を求めるものであった。この質問から、とりわけその時期に活動した宣教師エゴン・ヘッセル (Rudolf Alexander Egon Hessel,1904-74)にスポットライトが当てられ、その興味深い生涯についてシュナイス牧師からの応答だけでなく、フロアから多くの情報が寄せられることになった。

ヘッセルはカール・バルトの影響下に神学を修め、1931年にOAMの宣教師として来日した人物である。関西を中心に活動し、神戸にあるドイツ語教会牧師を務めた。1933年にナチスが政権を掌握すると、ドイツにあるOAM本部はナチスの政策を支持するドイツ・キリスト者(Deutsche Christen)の傾向を帯びることになった。ヘッセルは当初から反ナチスの立場であったが、在日ドイツ人をメンバーに多く持つ神戸のドイツ語教会では彼の思想的傾向を疎む声が強くなり、結局彼はその職を解任されてしまう。その後、OAM本部がヘッセルに出した帰国指示を彼は拒否し、その結果1936年には宣教師としての資格も剥奪される。

そこで、ヘッセルはドイツに告白教会(Bekennende Kirche)宣教師としての身分保証を求め、1937年にこの資格を持つにいたった(〜1940年)。もっともそれは名ばかりのものであり資金援助もなく、糊口を凌ぐために彼は四国の松山高等学校教師として赴任する。ちなみに、この松山出身で、草創期の宣教師の教えを受けた三並良(みなみはじめ)もこの松山高等学校教師であった(1919年〜1924年)。

さて、当時の松山教会の牧師は山本和であったが、ヘッセルは山本と二人で「十字架の兄弟社」を設立し『十字架のことば』を発刊する。これは半ばドイツ語半ば日本語で記された雑誌で、3号まで出ている。協力者には滝沢克己、福田正俊、石原謙など旧日本基督教会の重鎮がいたという。

その後、ヘッセルにドイツから招集令状が届くが、在日ドイツ公館に出頭を拒否したヘッセルは、ドイツ国籍をも喪失してしまう。その頃に妻のイルゼを亡くし失意の中に大阪へ戻るが、そこでアメリカの宣教師の娘に支えられることになり、結婚、アメリカへ出国、インディアナポリスの長老派教会牧師として働く道を辿った。

アメリカ合衆国の市民権を取得したヘッセルは、第二次世界大戦終結後、GHQの通訳として再度来日する。当時、東アジアミッションが日本に所有していた財産には敗戦国ドイツが関係するものが多く含まれていたために、それらは連合軍による接収の危機にあると見られた。そこで、窮余の策としてミッションをスイス側とドイツ側に分離させ(もともとAEPMはドイツ、スイス、当時のエルザス他ヨーロッパ各国に支部を置いており、国際的協働機関であった)、スイス側にその処理を委ねることでミッションはこの危機を乗り切ろうとしたのである。そして、その実質的な処理は反ナチスの姿勢を貫き、再来日後、スイス側ミッションによって派遣された宣教師としての資格を得たヘッセルの手腕に委ねられることになった。

もっともその事態の中で、宣教師としての活動を継続していた二人のドイツ人宣教師は、ナチスに関与したというヘッセルの申告を基にして辞任にいたらねばならなかった。このヘッセルの申告には必ずしも事実とは言い難い内容も盛られており、このあたりの事情は、今後慎重に解明されるべき事柄である。宣教師間の擦れ違いについては、それぞれの宣教師のメンタリティーとの関わりも指摘することができる。ナチスが政権を掌握した頃に、ヘッセルの個人的行動に危惧を抱いた東京の宣教師ヴァイディンガーは、両者の軋轢の中、体調を崩し活動から離れて帰国するにいたっている。

バルティアーナーであったヘッセルと関連して、バルトの神学思想が日本に適切に定着しなかった点にも言及された。日本のプロテスタント神学に与えたカール・バルトの影響は看過しがたい広がりと深みを持つが、それはバルトの神学を生み出した当時のヨーロッパ、ドイツ語圏の政治的、社会的文脈を捨象して受容されたものであるとの指摘は従来からなされてきたが、これに具体的に言及する興味深いコメントがなされた。ヘッセルは既述のように松山高等学校教授時代に「十字架の兄弟社」を設立した。彼はそれを日本の告白教会であると理解していた。しかし、ヘッセルと交流した日本人たちは、ヘッセルならびにバルトを正確に理解してはいなかったという。とりわけそれは「国家と宗教」の関係において明らかであった。そもそもバルトとブルンナーの間でなされた自然神学論争はこの「国家と宗教」の関係をめぐる問題であったが、日本人はこの論題を「純粋な福音」の語りという視点でのみ受容したのであり、政治と宗教との緊張関係の自覚は見いだされない。ヘッセルの友人であった滝沢克己もまた例外ではないという。

そもそもミッションも国家主義的思想から自由ではありえなかった。最初の宣教師であったシュピンナーはザクセン・ヴァイマールの君侯をパトロンにして派遣されたのであり、いわゆる自由主義的キリスト教と国家主義との関係、AEPMの体質についても意見が述べられた。草創期にこのミッションで活動した三並良、原田瓊生は、第二次世界大戦に突き進む時代に国家主義的な思想を展開し、さらに日本の文部官僚とも繋がっていくが、それはAEPM自体がその傾向を批判する視点を持ち合わせていなかったことだとも言いうるのである。

興味深いのは、井上良雄、椎名隣三など獄中でバルトを読んでいた人々が日本の国体思想から自由であったことである。彼ら、若い時代にマルクス主義に共鳴した人々は、日本の国体思想に束縛されることはなかった。そして、それを土台にしてバルトに取り組んだゆえにバルトとその神学を正確に理解しえたのだという。

バルトの活動をその政治的社会的文脈から切り離して理解してしまうことと関連して、現在の日本のキリスト教神学事情についても言及がなされた。AEPMを基本的に支持した20世紀初めの神学者にエルンスト・トレルチがいるが、日本でこのトレルチの学問的業績への関心は継続して続いている。それにもかかわらず、トレルチが関心を寄せたAEPMのキリスト教理解、宣教理解については等閑視されるという一種のねじれ現象が生じているのである。

主としてヘッセル宣教師の活動に焦点があてられた質疑応答であったが、それ以外にも、第四期、すなわち1975年以降現在にいたるまでの活動、そして富坂キリスト教センターの未来についても希望が述べられた。1975年以降、センターは社会倫理、諸宗教の対話、エキュメニズムに関心を向けそれを推進してきたが、その意識を継続していくべきこと、さらに牧師研修など新たに登場した 企画を発展させる べきことが要請されたのである。

(みずたにまこと・日本におけるドイツ宣教史研究会主事)




よそよそしさもまた連帯感

ゾンターク・ミラ

13年前に、エキゾチックな魅惑に引かれて、初めて来日した。それ以降私は、様々な経験を通して、日本の様々な「顔」に対面するようになった。今年の4月に私は、ドイツ福音主義教会南西宣教局(EMS)に就職して、日本と私の関係だけではなく、自分自身の信仰も考え直す機会が与えられた。四月一日、つまり一晩の間に、宣教師になった。「宣教師」とは色々なことが連想されているのであろう。ただし、「宣教師」の身分になったのは、日本語の世界に限る。ドイツ語で私は、「ökumenische Mitarbeiterin」(略語、ÖMA)、つまり英語のエキュメニカル・コーワーカーとなった。この名称は、「宣教師」より謙遜にも聞こえるし、宣教そのものを問い直した新しい理解を反映している。それに従った、ÖMAとしての私は、全世界のキリスト者の一致団結に努力する人達の中の一人である。7月に私は、ÖMAの特別研修に参加した。この研修が私の宣教師理解に与えた影響について以下に述べてみたい。

EMSは、ドイツの諸教会と諸宣教団体を再び統一させるために、結成された「宣教局」の一つである。それは、ドイツのメンバーになっている六教会と四宣教団に合わせて、アフリカとアジアの十七ヶ国の教会とパートナーシップを維持している。宣教師の派遣をやめて、お金の送出に集中している宣教団体の多数と比べれば、EMSは例外として、未だ宣教師(ÖMA)を派遣している。と言っても、本部のシュトゥットガルトに勤めている約50人に比して、ÖMAの14人はあくまでも少ない。確かに、一人のOMAに費やされる金額をもって、地方によって地元の二、三人も雇用できるが、しかしEMSの理解では、ÖMAの「よそよそしさのカリスマ」と「連帯感を表す顔」は宣教に不可欠である。

この二つのスローガンを説明する前に、「宣教」とは、現在において何を意味するかを解明しなければならない。多くの人が未だに抱いている「宣教師」の観念は、キリスト教を「母乳と共に飲み込んだ」西洋人が「外面的宣教」の主人公として異教徒の地域に行って、異教徒をキリスト教徒に改心させるような思いであろう。しかし、EMSは、その初期からこうした考え方と絶縁して、一方交通ではなく、「受けてからまた伝えよう」という方針に導かれた「双方向交通」としての宣教に努めてきた。ただ、この「双方向交通」のモデルもヨーロッパ中心主義の色彩があって、つまり宣教界の本部は相変わらずヨーロッパにあると考えられた。それで、90年代以降、EMSの方針はmissio deiの神学の影響を受けて、宣教を「合同の証言」として捉え始め、「キリスト教を教える」ことより、人類に対する神の宣教を証言することをオイクメネにおいて合同して学ぶこと、つまりエキュメニカル・ラーニングにある。その結果、EMSの構造も変わったし、EMSのメンバーとパートナーは皆平等に企画構想に貢献できるようになった。現在のプロジェクトも、一ヶ所の教会や団体などの欲求だけではなく、EMSのメンバーとパートナーが共に代表する地球全体のキリスト者の欲求を重視して計画される。

主イエス・キリストの証言を共に学び続けるキリスト者のグローバル・ネットワークにおいて、宣教師またはÖMAは、主に二つの役割を果たしている。電話やインターネットで連絡が取りやすくなった時代ではあるが、メディアを通した触れ合いはあくまでも一時的である。しかし、学習が日常生活から離れてしまうと、効果が少なくなるように、エキュメニカル・ラーニングにも「共に生きる」ことが必要である。一方、ÖMAの顔によって、「合同の証言」が全世界のキリスト者に与えられた課題だと何度も感じさせられる。他方、異なった経験をしてきたキリスト者と日常的なレベルで出会うと、その人の「よそよそしさ」が出てくれば出てくるほど自分の信仰・信念・習慣を見直すきっかけが与えられる。自分の視野を広げて、キリスト教の証言を深めていく過程の中で、そのよそよそしさが一つの「カリスマ」となっている。ÖMAは、そのよそよそしさを派遣中に痛感するが、帰国後についてもまた同じことが言える。最

初の来日以来私は、自分を日本(人)にとってのよそよそしいものとして考えるより、日本(人)を自分の立場を見直すきっかけを与えるよそよそしいものと見なしていた。目立たないように努力したこともある。けれども、その態度で私は、好機も失したかもしれない。また、帰国する時にも、目立たないように日本滞在の経験をあまり述べなかった。だが、今度のEMSの研修によって、私はオイクメネのキリスト者の一人として持つ責任を自覚したと思う。これから、自分のよそよそしさによって日本とドイツのオイクメネに積極的な影響を及ぼせるように祈っている。

(TCC研究主事)




中国キリスト教現代史資料集の出版を目指して

薛 恩峰

 激動する20世紀において、忘れられない歴史的な出来事や事件は数多くあった。広大な中国大陸における中国共産党による社会主義革命の勝利もその一つである。半世紀を越える共産党支配の下で、中国のキリスト教はどのような歴史をもっているのか、また中国社会の一員としての中国人クリスチャンはどのような歩みを続けて来たのか、ということに関しては、日本の教会ではあまり知られていないのが現状である。  

21世紀における関係をどう築いていくかは、日中両国の教会に与えられた重要な課題の一つだと言えよう。いうまでもなく、わたしたちは関係を結ぼうとする時、あるいは交流しようとする時、まず相手のおかれている立場、情況を知ろうと努めなければならない。それによって初めて相手を理解できるようになるであろう。知ることなしに、相互理解も協力関係もあり得ないとすれば、微々たる努力にしろ、それを行動に移さなければなるまい。中国キリスト教現代史資料編纂プロジェクトが発足した目的も、この点にある。  

富坂キリスト教センタ−の全面的なバックアップのもとで、当研究会は新中国成立後の1949年から2000年までの中国プロテスタント教会の資料と中国共産党の宗教政策に焦点を絞って、原典資料の収集とその和訳を目指してきた。これまでに中国大陸をはじめ、香港、台湾などの研究所や大学の協力を得て、多くの資料を手にすることができた。収集されたこれらの資料は、現代中国キリスト教史を研究する上で貴重なものとなるだろう。  

ゼロから出発した研究会だが、「経験皆無、課題過多」という難局に直面しながらも、関係資料の翻訳作業を終え、その実りの賜物としていよいよ出版の準備に入ることができた。幸いにも、新教出版社の秋山憲兄様からの絶大なご支持を頂戴し、早期の出版を目指して、初校の校正を進めているところである。  

一応この本の体裁としては、同社が上梓した『日韓キリスト教関係資料集』の体裁を参考にしながら、あくまでも原典資料の紹介を目的とした上梓を考えている。  資料集の構成をおおざっぱに紹介すると、下記の通りである。

    第1部 現代中国キリスト教に関する基本資料
    第2部 信教の自由に関する中国政府の基本資料
    第3部 信教の自由に関する中国政府の見解
    第4部 中国政教関係年表及び中国キリスト教研究文献目録
    第5部 日中キリスト教の交流
    付 録
      中国キリスト教行政機関
      主要都市教会所在地一覧表
      神学校所在地一覧表
      省レベル行政区におけるクリスチャン人口統計

1979年、教会は中国大陸で復活した。以来、中国におけるキリスト教の運命および発展に世界のキリスト教関係者の耳目が集まっている。不完全な統計ではあるが、2000年におけるクリスチャンの数は1500万人で、単純に比較するだけでも、建国当初の21倍となる。聖書の印刷部数は20年間(1980〜2000)で2500万冊にのぼり、世界一多い国家と自負さえできる。文化大革命の期間中、「宗教は人民のアヘンである」と認識され、国家権力は極左路線に走り、暴力手段をもって国民の宗教活動を弾圧した。キリスト教だけでなく、仏教など諸宗教も激しい迫害を受け、一切の活動を禁止させられた。当時、「宗教はすでに歴史博物館に入った」と宣言されたほどであった。消滅したとされた宗教が、いまなぜ発展し続けているのか。社会主義中国のキリスト教50年を貫く「三自愛国運動」とは何か。聖書は本屋で購入できるのか。原典資料を通して、現実に大きく発展しつつある中国教会の現状と中国政府の宗教政策を少しでも浮き彫りにし、日中両国のキリスト者の交流に役立つ基本的資料と基礎知識を提供しようとするのが、資料集のねらいである。本資料集が日中両国のクリスチャンや関係者の相互理解の一助となれば、望外の喜びである。

出版報告

(しゅええんふん・中国キリスト教現代史資料集研究会主事)



資料集(4冊)出版報告 自衛隊・憲法・国連研究会

山本 光一

 今年の3月、自衛隊・憲法・国連研究会は、「矢臼別演習場取得三自治体(北海道厚岸郡厚岸町、浜中町、野付郡矢臼別町)の議会議事録」、「川瀬氾二聞き取り」、「日本基督教団諸教区の有事法制案に反対する決議・声明」、「有事法制関連法律集」の4冊のパンフレットを発行した。最初の2冊は、陸上自衛隊矢臼別演習場に関するものであり、後の2冊は、有事法制に関するものである。

矢臼別演習場は、北海道の釧路市から北東に1時間半ほど車で走ったところにある。南北10 q、東西28 q、16,813 haの広大な面積を持ち、年間平均で313日の演習が行われている。

この演習場のど真中に住む人が居る。川瀬氾二さんである。川瀬さんは1952年、ここに入植した。布団を担いで入植地に入り「おがみ小屋」と呼ばれた屋根だけの、六畳の広さもない小屋を原始林の真中に建て、開墾を始めた。

穀物を作り、炭を焼き、馬が買えるようになり、やっと馬橇を買えるようになればすこし楽になり、みなが牛を飼って酪農を始めるようになった頃、1962年になって突然この地を陸上自衛隊の演習場にする話が持ち上がった。

酪農経営には膨大な設備投資が要る。その頃、農家は、農協、銀行、自衛隊誘致会、三者の結託によって勧誘された設備投資のための借金漬けになっていた。「借金を早く返してこんな生活から抜け出したい」と思うようになっていた農家は、平均160万円で、苦労して開墾した自分の土地と設備を防衛施設庁に売り渡さざるを得なかった。1964年、用地買収工作はほぼ完了、54戸が買収に応じたが、2戸だけがこれに応じなかった。川瀬氾二さんは、その一人で「ここに住みたいのです」と言って動かなかった。とうとう川瀬牧場は演習場のど真中に位置することになった。

矢臼別演習場に関する2冊のパンフレットは、「なぜ、命をはぐくむ酪農地が命を殺すための演習場になってしまったのか」という素朴な疑問から作業が始まった。

1冊目は、川瀬氾二さんの聞き取りである。渡辺佐知子さんと山本光一はそれぞれ2日間川瀬宅で聞き取りを行い文章を起した。川瀬さんは「別に自衛隊と張り合うためにここに居たかったわけではなくて…、ただ、ここに居たかったから」というような調子で語る。川瀬さんは「基地問題の闘士」というわたしたちの予めのイメージを殺ぐ。

2冊目は、広大な農地が矢臼別演習場として買収されていくその経過を演習場が占める厚岸町、浜中町、別海町3町の議会議事録に見るものである。渡辺佐知子さんが町役場に通いつめて議会議事録を閲覧、書き取った。

国策の変更によって、豊かな酪農地帯が戦争の練習場となっていかなければならない町民の苦悩を伺うことができる。

後の2冊は、2001年9月11日の「同時多発テロ」以後に発表された日本キリスト教団諸教区・教会による決議・声明文集である。

9・11は、ソ連崩壊後の中東の覇権を狙っていた米国に絶好の進出の口実を与えた。以降、「テロ組織」相手の武力行使が続く。小泉首相は、米国の世界戦略に追従し、次々と「戦争をすることができる」法体制の整備を策動する。この資料集は、戦争への道をひた走る米国と日本の進行をなんとかしてストップさせようと力を尽くした日本基督教団諸教区の記録である。

資料に解題を添えた。憲法改悪の動きを見つめながら、憲法九条第2項にある戦力の放棄と交戦権の否定のうち、戦力の放棄は容易になし崩すことが出来ても、自衛隊の活動範囲の事実上の拡大による交戦権の否定のなし崩しについては強い抵抗に遭っている経過を見たかったからである。

(やまもとこういち・自衛隊・憲法・国連研究会主事)

〈資料集1〉
「矢臼別演習場取得三自治体(北海道厚岸郡厚岸町、浜中町、野付郡矢臼別町)の議会議事録」B5版 164頁
〈資料集2〉
「矢臼別を生きて―川瀬氾二聞き取り―」聞き手 渡辺佐知子 B5版 26頁
〈資料集3〉
「日本基督教団諸教区の有事法制案に反対する決議・声明」B5版 67頁
〈資料集4〉
「有事法制関連法律集」B5版 98頁
* 資料の欲しい方はTCCまでご連絡ください。




出版記念シンポジウム報告
『現代世界における霊性と倫理』
奈須 瑛子


 1998年に富坂キリスト教センターのプロジェクトのひとつとして「キリスト教霊性と倫理研究会」がたちあげられ、2005年2月にそのまとめとして『現代世界における霊性と倫理』が行路社から出版された。11月19日、ドイツ留学中の石井智恵美主事を迎え、出版記念シンポジウムが富坂キリスト教センター1号館でもたれた。

プログラムは、午前の部はワークショップとして、参加者は、この会のオブザーバーである中山重典和尚指導の坐禅(2号館)、打樋啓史担当のテゼの祈り(1号館)の二つのグループに分かれ、ゆったりとした黙想の時をもった。テゼの祈りは、東京で1988年から続いている「黙想と祈りの集い」のグループの若者たちがギター、太鼓などの楽器を持参して手伝ってくれた。一時間半の沈黙や歌を使った祈りのときは意識のレベルを超え、そのためか昼食のときのわかちあいでは、ひとり一分という限られた短い時間の中で、思いがけないような深みのある発言がなされたのが印象的だった。特にNHKのディレクターの方が、「放送の現場では30秒の沈黙は放送事故として扱われる」という話をされ、テゼの祈りでの5分間の沈黙の意味をあらためて考えさせられた。また、祈りに身をゆだねた心地よさについて、何人かの方が話された。食事も中山和尚によるけんちん汁、おにぎりというシンプル、しかもこだわりのあるもので、普通のシンポジウムとは一味ちがった、この研究会らしいものだったといえるだろう。

午後のシンポジウムは、メンバーの西平直氏によって「現代世界における霊性と倫理―宗教の根底にあるもの」というテーマでの基調となる発表がなされた。その内容は、1.「宗教間の対話」ではない「異なる宗教の根底におけるつながり」、2.「一番深いところでつながっている」その実感と問題性、3.霊性のベクトルと倫理のベクトルの「矛盾・バランス・往復・反転」、4.組織・権力・教団・教義・システムとは異なる仕方で、「霊性をたいせつにするとはどういうことか」が、わかりやすく語られた。この研究会が大事にしてきたこと―言葉によって説明し尽くそうとすることへの違和感、にもかかわらず、本当の言葉を求め、耳を傾けようとする感性―がまとめられ、数年間のこの会の歩みが、文字通り「有り難い」ものであったことが思い出された。その後座長の山岡三治氏の司会で、各執筆者のコメント、参加者の質疑応答がされた。霊性のとらえ方、苦しみと心地よさ、謙遜であること、消していき棄てていくこと、などが出された。ゲストで、執筆者でもある森野善右衛門氏が参加され、苦しみと霊性、十字架の神学について語られた。40名ほどの参加者はキリスト教徒ばかりではなかったが、インドのマザーテレサのところで、ボランティアをされていた方など、自分の問題意識をしっかり持った方が多く、ここでも言葉が上滑りするようなことはなく、思いの深さからたちのぼるような発言が目立ち、2時間半があっという間に過ぎた。まだ、語り足りない方もおられたようだったが、16時半、日も落ち暗くなった中で、バッハの「ミゼレレ・ドミネ・デウス(憐れみたまえ、神よ)」をバックに橋本恵子氏のメディタティヴ・ダンスがプログラムの最後をしめくくった。これも、この研究会が大事にしてきた、頭だけでなくからだ全体を使って、ということを象徴していたように思う。沈黙の祈り、祝祷と、沈黙に始まり、沈黙に終わるプログラムだった。ずっしりと重い内容の1日であり、この研究会はひとまず終わっても、それぞれの場所でさらに自分のテーマを深めていくことをうながされる思いを、それぞれが感じたのではないだろうか。

個人的なことを書くと、筆者は30年間、プロテスタントの神学校で、教会音楽を教え、1980年後半頃から、なるべく「霊性」という言葉を使わずに、からだを使った祈り、感性のレッスンなどを試みてきた。それは、その頃、プロテスタントではまだ「霊性」という言葉はなじみがなく、折りしも浮上したカルトの問題とあいまって、拒否感が強く、無視されてきたからだった。それから10年がたったとはいえ、石井智恵美氏が、「霊性と倫理」を掲げて研究会をたちあげられたことは、非常に勇気のあることだったと思い、今さらながら感謝の気持ちでいっぱいである。

なお、シンポジウムの間、この本の表紙絵を描かれた那須陽子氏の「にじみ絵」数点が、1号館に展示された。

(なすえいこ・霊性と倫理研究会メンバー)




シリーズ ひと・ひと・ひとH
  Daniel H.N.Yeungさん

香港に「漢語基督教文化研究所」という団体があることは2003年6月の「富坂だより」11号で紹介した。この団体のヤング所長は今年4月の富坂キリスト教センター30周年記念に香港からお祝いに駆けつけて下さったから、覚えておられる方も多いだろう。

今回、この研究所との協力関係は翻訳出版事業『天皇制関係論文集』だけにとどまらず、共同プロジェクトの開発にまで進んできた。香港で共同プロジェクトの準備会が行われ、日本、韓国、中国、ドイツ、それに香港のメンバーも加わって活発な議論が展開された。

その機会に、漢語基督教文化研究所の所長、ダニエル・ヤング牧師に色々とお話をうかがった。写真はその際に所長室で写したものである。道風山(タオフォンシャン)という山の中腹や頂に幾つかの施設が点在している。ルーテル教会の神学校もある。研究所の中心的仕事は、キリスト教を中心にした西欧思想の古典から現在に至る様々な書籍を翻訳出版し、それを材料に研究会を構成することである。

「私が道風山に来たのは1992年でした。その頃は施設はほこりっぽい書籍でいっぱいでした。ところが外に出ると、「道成肉身」(言葉は肉体となった。)という言葉とか「道風大千」、「道風境界」などの碑文が目に飛び込んできました。それ以来、神様の働きはそのほこりの背後にすでにあるのだということが私の確信になりました。」このようにして、ヤング牧師はその道風山の古びた施設をすっかり改革して、大陸中国に対する西欧思想輸出基地にしてしまった。さらに、中国の大学教授陣をリクルートして研究会を形成し、中国のキリスト教神学形成に向けて1歩を踏み出した。

「エキュメニカルな神学者たちの共通理解は、神学は教会から、教会のために、そして教会に向けてあるべきだ、ということである。」 「中国キリスト教神学は、この意味で、中国アカデミー界から出て、中国アカデミー界のために、そして教会と社会に向けて展開される。」 ヤングさんは最後に、先年同研究所を訪問したモルトマン教授の言葉を紹介して、同研究所の必要性を次のように締めくくった。

「モルトマンは次のように言いました。『神学研究は決して教会の専有物ではなく、無神論者の神理解はしばしば有神論者の神理解よりも深いことがある。』中国のリーダーたちはすでに『宗教』を人間社会の構成要素と見なしています。今日、キリスト教研究は中国全ての大学で受容されるようになってきているのです。」

 (聞き手:鈴木正三・TCC総主事)


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