『富坂だより』 20号
2007年12月

特集: いやしから救いへ

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巻頭言

「スピリチュアル・ブーム」の中で

外崎 孝

ここ数年「スピリチュアル・ブーム」が続いている。女性占い師やスピリチュアル・カウンセラーと称する人たちが出演するTV番組がいわゆるゴールデン・タイムにオン・エアされ、毎回かなりの視聴率を上げているようだ。書店に行けば、それらの人たちの著作が店頭に平積みにされている。そういえば「ITバブル」の頃に上場した会社のひとつは女性向けの占い携帯サイトで大成功したベンチャー企業であった。

霊的なことなどにはけっこう関心があるが特定の宗教団体には属したくない、という今の日本人の一般的な意識は、オウム真理教事件以来ますます強まっている。昨今の「スピリチュアル・ブーム」は、スピリチャアルな世界を安全な場所から少し覗いてみたいという人々の欲求を満たす役割を果たしているに違いない。

もちろんその一方で、人生に対する不安や絶望を抱えて深く悩み、救いを求めている人たちも非常に多く存在する。毎年、自ら命を絶つ人の数が交通事故の犠牲者数の数倍に及んでいるというのも、恐らくその一つの証左であろう。

そのような中で、果たしてキリスト教会はどれだけのことが為し得ているか。せっかく初めて礼拝に出席しても、教会全体に沈滞した空気が流れ、牧師の説教にも迫力が無かったとしたら、翌週また来てみようという気はまず起こらないのが普通であろう。教会員の高齢化や青少年層の極端な減少が絶えず問題となる状況下において、教会としてどのように伝道を進めて行くべきか、が改めて厳しく問われる時期にさしかかっているといえよう。

富坂キリスト教センターにおいては「現代世界における霊性と倫理」(行路社)の刊行などにみられるように、こうした課題の研究を積極的に行い、成果を具体的に世に問う働きが続けられているが、その重要性は今後も増すことはあっても減ることは決してない。どうか、これからもより積極的に研究活動を続けて行っていただきたいと願う次第である。

(とのさきたかし・TCC監事)





「いやし」とスピリチュアリティーの問題

賀来 周一


最近、「すぴこん」なる催しが盛んになっていると聞く。「すぴこん」とはスピリチュアル・コンベンションの略で、広い会場にさまざまな占い、いやしのブースが仕切られ、手相、人相、星占い、タロット占い、レイキ、気功、チャクラ、チャネリング、パワーストーンなどと称される類いの出店が並び、人々はちょっとした買物気分で、いやしと自分探しができるという算段である。若者とくに若い女性に人気があるようである。これを称してスピリチュアルという言葉でジャーナリズムにもいろいろな形で登場する機会が増えている。いわば安易な装いで「いやし」がスピリチュアリティーなる世界と結び付く傾向がそこにある。

しかし、幸いにしてというべきか、1999年、WHOが健康とは何かについての定義を試み、健康であるとは身体的、心理的、社会的、そしてスピリチュアルな要因が相互に関連し、全体として統合され、活性化しているなら健康であるとの主張を行った。そこには健康であるとは病気でない状態を指すのでなく、たとえ病んでいても、人は健康であり得るという受け取り方があることを教えることとなった。

このWHOの健康に関する主張の中にスピリチュアリティーの世界が取り入れられたことは、医学界はもちろん宗教界にも、正しいスピリチュアリティーとは何かを問う機会を提供することとなった。

とくに緩和ケア病棟(ホスピス)における死の看取り現場では、終末患者がしばしば医療従事者に問い掛けるスピリチュアルペイン(終末患者が抱える危機的実存的問い:「なぜわたしはがんになったのか」、「こうなったら死んでしまいたい」、「まだまだ死ぬに死ねない」、「わたしは死んだらどうなる」等々)への究極的な答えは何かが求められるようになっており、これらの問いはスピリチュアルケアの課題として扱われ、医療行為の中には納めることはできず、あらためてスピリチュアリティーとは何かを明確にすることが医学の外の世界に求められている。

このことに関して、「いやし」ということを歴史を通し神学的な課題として、しかも教会の働きとして取り上げてきたキリスト教会に期待が寄せられているが、今日では仏教界も哲学界からもスピリチュアルケアに関する研究がなされるようになっていることを考えれば、キリスト教会の責任は益々大きいと言わねばならない。

同時に、この問題は教会外からのキリスト教に対する期待ということから考えれば、スピリチュアリティーの問題に答えることは、神学が教会の中だけでなく、教会外の世界にも通用する形をもつことが求められていることでもある。それは社会の要請に応えるということであって、宣教論的な課題でもあると言わねばならないであろう。

(かくしゅういち・第2次牧会心理研究会座長)




「いやしブーム」の問題性を問いつつ、教会の課題を見出す

吉岡 光人

現代社会における「こころの問題」が深刻化していることに異議を唱える人はいないであろう。近年マス・メディアでもこれに関する話題が頻繁に取り上げられており、社会的な関心が高くなって来ていることを示している。こうした社会的関心の高まりは、「こころの問題」を抱えている人々への偏見を少なくする効果を多少は上げていると言える。しかし一方で、「こころの問題」が商売の手段にされているという現実もある。占い師や霊媒師たちがレギュラー出演しているテレビ番組が一定の視聴率を獲得しているのは何よりの証拠であろう。そして、このブームに乗じた悪しき商法に騙されてしまう被害者も後を絶たない。何でも商売の対象にしてしまう現代社会は「こころ」や「スピリチュアリティー」もマーケットにしてしまった感がある。こうした問題に宗教関係者や医療関係者は黙っていていいのだろうか。

牧会心理研究会(2)は、漸く「心の病とその救い」の続編である「いやしから救いへ」を世に送り出すことができた。研究会が始まって10年以上が経ってしまったが、その間にも「こころの問題」は次々と新しいものが出てきた。それらをすべて扱うことは不可能であった。しかしながら、深刻で複雑なこれらの問題に対して、キリスト教会がどう向き合っていったらいいのかという問いを投げかけることはできたのではないかと思う。一口に「こころの問題」と言っても、比較的解決しやすいと思われる小さな悩みから不条理を感じざるを得ないような深刻な悩み、精神障碍・パーソナリティ障碍や病気の問題、そして実存的危機の問題まで幅広い意味を持っている。こころの問題はデリケートなものであるから、その扱い方は一般論で押し通すような乱暴なものであってはならない。だからこそ、専門分野の違う者たちが意見を交換し、協力し合える環境を作り上げてゆく必要がある。本書はそのような願いを込めて作られている。

現代社会の「こころの空洞化」の問題は随分議論されてきたが、根本的には一向に解決していないと言えよう。そしてこうした社会状況であれば、こころの問題はますます深刻化するであろうし、その問題を抱える人の数は確実に増えてゆくだろう。そして、そのような人々を商売の対象してしまう傾向も消えることはないだろう。では、このような複雑な問題を抱えている現代の社会構造の中に立っている教会が、傷つき倒れてゆく人々とどう関わってゆけるのか、その課題を共に担うことができれば本書を世に送った意味は十分にあると思う。

(よしおかみつひと・第2次牧会心理研究会主事)




「いやしから救いへ」

小島 誠志

九州の大学に行っていた息子がまっ青な顔をして突然帰ってきたのは大学2年の初め、5月の連休のまえでした。考えてみれば高校時代も中学時代にも閉じこもり勝ちな子どもでした。友達はよく遊びにきましたが、友達が好きというよりは断われないということだったと思います。

精神科の病院に初めて連れて行きました。当時の診断で分裂病とされました。彼と向き合って話してみると、幻聴幻覚に悩まされているのは明らかでした。もう少し早く診察を受けることは出来たかもしれません。親の立場で、受験期とはこんなものだ、反抗期のひとつのあり方だなどと受けとっていました。精神科の病気などとは夢にも思っていませんでした。

仕事もできる範囲で少しはした方がよいという医師の勧めもあって、ランドリーに行きました。几帳面な性格で彼には向いているように見えました。しかし梅雨どきや夏、洗濯物がどっと積まれるようになると、パニックに陥り仕事ができなくなりました。出勤できなくなり会社に迷惑をかけるようになりました。

町の住宅地図をつくる会社に行きました。地図は好きなので、仕事は遅かったのですが、なんとかつとめを果たしていました。しかしここでも几帳面が災いしました。名前を知られたくない家があって表札がなかったのです。彼は家に入っていって、主婦に無理矢理名前を訊き出そうとしたのです。事件になりました。数十万円のお金を払わなければならない仕儀になりました。

未明に高校時代の同級生の家に押しかけたり、通りがかりの人と問題を起したり、わたしたち夫婦は毎日闇の中を手さぐりしながら歩いている具合でした。

教会には幼稚園が併設されていました。彼には幼児の視線さえも脅威になることがあるようでした。幼稚園の庭で幼児を突きとばしたこともありました。不特定多数の人間が出入りする場所はよくないと医師に言われました。悩みました。教会を離れて牧師としての働きができるだろうかと思いました。

悩んだ末、教会を離れる決心をしました。2キロ程離れた場所に住宅を購入しました。このことは彼にも明らかに好い影響をもたらしました。これまでのように、そわそわとするようなことが少なくなりました。それから10年が経ちました。

息子が病気で帰って来たとき、祈祷会に来ていた人々に事情を説明しました。だれもなにも言いませんでした。なぜ牧師館にそんな病気の子が、と思った人もいたと思います。育て方に問題があるのではないかと考える人もあったと思います。しかし教会の問題として受けとめ祈ってほしいと願いました。教会形成の課題だとわたし自身考えました。課題にしなければならないと。

イエス・キリストは病める人を会堂の真中に置いて癒されました。片隅で、ではありませんでした。病める人をめぐって共同体はありました。いやしの主と病める人をめぐって、であります。 母親は息子の病いを深く悲しんでいましたが、息子を受容していました。父親のわたしは受容できませんでした。一緒に生きていく中でゆっくりと受容できるようになったと思います。息子が受容できるようになって人の声が聞こえるようになりました。同じような痛みを負っている人の声であります。牧師として聞いていた筈の声であります。深い場所に立たなければ見えないものがあり聞き得ないものがあることを知らされています。

福音書の中に主イエスによる多くのいやしの出来事が記されています。わたしは、あれらの出来事は救い主による終末のわざだと信じています。病める人、苦しむ人、うめいている人―みんな癒されるのです。息子も癒されるのです。「悲しんでいる人々は幸いである。彼らは慰められる」。みんな救い主の約束のもとに立っているのです。息子と一緒に、病める人々と一緒に、病めるひとりとしてわたしも、待ち望んでいます。その時を。

(おじませいじ・TCC牧師研修実行委員)



第7回 富坂キリスト教センター牧師研修会
佐渡研修のご案内

    日 時 2008年1月7日(月)18:00〜11日(金)10:00
    場 所 日本基督教団 佐渡教会
    (〒952‐1313新潟県佐渡市八幡町256 電話:0259‐57‐2359)
    主 題 「主を畏れ、主に仕える――勇ましさ、速さを主は望まれない」
    目 的 牧師が主を畏れつつ歩む訓練をつむことにより、知恵を身につけ、練達と勇気と希望を取り戻す。
    定 員 15名(先着順)
    参加費 5000円(交通費往復1万円を超える分を補助します)



『原典 現代中国キリスト教資料集』翻訳作業に参加して

日原 きよみ

『原典 現代中国キリスト教資料集』 新刊 総頁944頁 定価12,600円 発売2008年1月7日

『原典現代中国キリスト教資料集』が世に問われようとしている。多くの方々の多大な労力と支え、祈りの結晶としてのその姿を思い描き、一種の緊張感を禁じ得ない。

思えばこの研究会を知り、翻訳作業に参加させていただいたのは、敬愛する渡辺英俊先生のご好意と神の強い導きの御手によるものだった。現代中国とキリスト教という二つのキーワードを冠する研究会が、クリスチャンであり中国と関わってきた私の中に当然のようにあった、ある乖離を埋めてくれる、そう直感した。ここで出会ったのが、中国キリスト教の現実の只中に生きておられる薛恩峰牧師だった。ご父君が牧師という、中国人としてはかなり特異な背景を持たれ、不思議な縁で日本に来られた先生は、ご自身のお忙しい生活の中にあって私達翻訳者を支え、常に細やかなご配慮とご助言を下さった。その豊富な人脈と研究基礎なしに、この事業は成し遂げられなかったろう。日本ではなかなか手に入らない原典資料は全て先生の手で揃えられ、各メンバーに配布され、翻訳作業が始まった。中国に信教の自由はあるのか、社会主義とキリスト教は両立しうるのか、「三自愛国運動」とは…それらを翻訳することを通じて知るに従い、私は自らのあまりの無知さ加減に愕然とさせられた。

この翻訳作業は世紀の変わり目に開始され、中国の法輪功問題、チベット問題、バチカンによる中国人信徒の列聖問題など、宗教と政治との関わりが突出した時期に並行して進められた。文革終息後、想像を絶する発展を遂げた中国教会の有様は、宗教と共産主義を対立構造だけで捉えていた日本人的な偏見を打ち砕いた。何かを言う前に、まず相手の情況と背景を知らなければならない。知ることなしに論ずることの愚かさを思い知らされる日々だった。一生問い続けるべき課題を与えられたこの貴重な出会いに感謝したい。

この本は、中国キリスト教の基本的な資料や政府の宗教に対する見解の紹介を主な目的とするが、それだけに留まらず、キリストと出会い、魂を揺ぶられ、かの地にキリスト教を根付かせようとした先駆者たちの苦悩と魂の歴程をも開示し、信仰を同じくする日本のキリスト者の心に深く響くものがある。また中国政教関係年表、研究文献目録、日中交流史、行政機関、教会や神学校所在地一覧表や統計等は、日本の中国研究者に有益な基礎資料を提供するだろう。多くの読者がそれぞれの立場から読んで下されば幸いである。

翻訳という作業は対象と真向い、その背後にあるものを学ぶ出発点でもある。まず読み、理解し、自国語に置き換える。その過程で翻訳者は嫌が上でも、彼我の文化や背景の差、考え方の違いに気付かされる。母国語の慣習や勝手な理解、価値観に目を覆われ、誤訳を生む危険性が常に隣り合う。誤りを少しでも減らし、正確な日本語に近づける、その中に大きな学びがあったことに今さらながら気付かされる。今、貧しいながらも格闘した翻訳を世に問う機会が与えられた。心から感謝し、読者を通じて自分の蒙がさらに啓かれていく期待で胸を一杯にしている。

(ひはらきよみ・中国キリスト教現代史資料編纂研究会メンバ−)





ホフガイスマルから B

 岡田 仁

牧師研修所は今、美しい紅葉の木々に囲まれています。ホフガイスマルでの生活も一年になりました。この間皆様のお祈りに支えられ、学びを続ける事ができ、感謝と共に心よりお礼を申し上げます。

6月にはドイツ・プロテスタント教会(EKD)の教会大会に参加しました。延べ10万人がケルンに5日間集まり、それぞれ聖書研究、講演、ワークショップなどに参加します。主題は「人間」、「社会」、「世界」を柱に、宣教をはじめ、祈りと讃美、霊性、生命倫理、宗教間対話、環境、平和など多岐に亘っていました。カフェの一角には「南北」問題の展示があり、世界の貧困の厳しい現実が紹介されていました。社会的、経済的、文化的発展から締め出されている人々の苦悩を、いかにして教会は祈りの内に覚え、共に担うのか。聖書の告げる正義の意味を改めて考えています。また、世界教会の紹介もあり、教派間の違いや伝統を越えて一致に向かうエキュメニカル運動の高まりを感じずにはおれませんでした。牧師研修でも礼拝、リタージー、聖餐、説教などの理論と実践について学びますが、現代の多様な在り方についても丁寧に議論を続けるドイツやヨーロッパの教会の姿から多くを学びます。

9月にはベルリンでドイツ東アジアミッションの大会があり、ドイツと日本(教団)両教会の戦責告白について協議がなされました。日本から原誠先生(同志社大学神学部部長)と鈴木伶子先生(キリスト者平和ネット)の貴重な教示と提言を受けました。さらにシュツッツガルト罪責告白、ダルシュタット宣言、ドイツ教会の歴史にも学び、自らの罪の認識と告白を抜きに新たな教会の出発はない、と述べられたM.シュテール博士の言葉を思い巡らせています。

毎年10月最後の主日には、州教会の按手礼式が行われます。この夏、研修を共にした牧師補達の按手礼に私も立ち会う事が許され、感無量でした。会堂は二階まで人で満ち、礼拝後の祝会も町をあげての盛大な会でした。受按者の代表が謝辞を述べました。「これまで教会での働きと牧師研修を通して、多くの方々の同伴を度々実感し、実り豊かな訓練を受けることができました。如何なる時にも自分の天分を信じることと祈ることの大切さを学び、主なる神が私達と共にいて下さることの真実を経験しました」。

研修所の日々のプログラムは朝拝に始まり夕拝に終わりますが、夜遅くまで研修の中身や牧会上の問題、家族の事など公私にわたり、率直な疑問や意見をぶつけ合うこともあります。時には笑い、涙する彼ら彼女らの姿に接し、このような時と場があることの素晴らしさ、大切さを思います。金曜午後にはその週の研修を終え、それぞれの教会に戻ります。そこには良き同伴者、相談相手(メントア)としての主任牧師がいます。事情は異なりますが、教会に仕えながら牧師研修を受けることの出来るドイツ・プロテスタント教会の豊かさを思わずにはおられません。

(おかだ ひとし・前TCC牧師研修主事)





シリーズ・ドイツから直行便で C 

映画とキリスト教宣教
ゾンターク・ミラ

「百聞は一見に如かず」という発想は東西ともにある。それはなぜかというと、コミュニケーションで伝えられる情報の大多数は「非言語的」コミュニケーションを通して伝えられるからである。それにまた生理学的な原因があるらしい。つまり、人間の耳が1秒に受信できる情報を目の受信力と比較すれば、目が耳の100 倍の情報(10.000.000 Bit/s)を受信できると言われている。これは、人と人との直接的な出会いに当たって計算されたものであろう。本と映画みたいな間接的なコミュニケーションの場合には違うだろうといえども「千語は一画に如かず」(Ein Bild sagt mehr als tausend Worte)。

宗教と美術は昔から密接な関係を持っていたが、近世・近代以降、宗教が「担当」している芸術の分野は「聖」がつく分野(聖楽、教会建築、宗教美術)に拘束されてしまった。「聖」がつかない文化的分野に関しては、宗教集団としてのキリスト教会が権限も資格もないとされてきた。ドイツの諸教会はこの数年来こうした意識に立ち向かおうとしている中で、2002年初めて行われたプロジェクトを今年から一層幅広く実行する。

『教会プラス映画館 お薦めの映画』という題目の下、9月にドイツのノルドラインウェストファーレン州とニーダーザクゼン州(初年)において、エキュメニカルな映画プロジェクトがスタートした。このプロジェクトでは、2州内20地域においてカトリックとプロテスタント合同の諸教会が地元の映画館と協力して、ドイツとスイスのキリスト教機関に推薦された映画のシリーズを上映する。地方を越えるレベルでカトリックとプロテスタントの諸アカデミーやそれぞれの映画文化研究所とメディア・サービス・センターが地元の教会の後ろ盾になる。翌年の6月まで、講演会やパネル・ディスカッションと平行して、8つの映画が上映される。こうしたプログラムを通して「教会と映画館との対話、そして地方での映画文化的実践を奨励し、<宗教>、<倫理>と<映画>に関する社会的言説に刺激を与えたい」と主催者は言う。上映される映画は、様々なジャンルおよび思想的背景によるものとして、「他なるもの、生のプラスへの憧れ」を養うものとされ、映画が始まる前に、宣伝の代わりに映画の背景が紹介され、鑑賞後にゆっくりした意見交換が行われる。

プロジェクトのホームページによると、「映画は比喩のようなものであって、つまりそれは人間の経験を語って、それを一層幅広い文脈に引き上げるものである。法律でも、確定された知恵でも、倫理的ガイドラインでもない。それはむしろ解決されなければならない謎であって、私たちが自分自身に出会う鏡像である。」愛、希望、忠実、献身、信頼、苦しみ、死、切望、生と愛への憧れは、映画でしばしば取り上げられているテーマだけではなく、教会の中心テーマでもあるので、キリスト者は独立した映画の製作者と出会った、それぞれの「生についての知識」を対話させるべきと言う。

上述したプロジェクト以前、それぞれの国際映画祭にエキュメニカルなジリーがあった。カンヌ国際映画祭のエキュメニカル・ジュリーは最も古くて 1974年から活躍している。ドイツの諸映画祭には大体2002年にこうしたジュリーが出来た。推薦された映画については以下のホームページをご覧下さい。

(TCC研究主事)




シリーズ ひと・ひと・ひとL
  鈴木 伶子さん

鈴木伶子さんへのインタヴューは、6歳の折東京大空襲の死を潜り抜けた戦争体験、それが生涯を決定付けたという重い事実から始まりました。1960年、鈴木さんは世界学生キリスト者連盟の世界大会に参加、そこでひとりの韓国人学生によって衝撃的な体験をします。その学生は、日本人を許せるように力を与え給え、と神にひたすら祈ってフランスに来た人で、長い話の終りに「僕は日本人であるあなたを許す」と語ったのです。鈴木さんはその時初めて、戦後平和教育の最善の部分を受けてきたと信じ、自分も平和を作り出すために働きたいと考えていたのは、すべて戦争の被害者意識に立ったもので、日本が犯した戦争の罪については何も学んでいなかったことに気づきます。そして同時に日本人としての責任という問題に向き合うことになったのでした。

大学卒業後は念願の英語教師となり、26年間の教職時代を経て、1987年日本YWCAに転職されました。幹事として人権・平和問題と関わり、1988年春の訪韓をきっかけに慰安婦問題と取り組み、それは全国規模の運動となりました。実はその訪韓の折、鈴木さんは尹命善(ユンミョンソン)さんとの驚くべき出会いを経験します。詳述できませんが、尹さんは神社参拝拒否のために殉教死を遂げた朱基徹(チュギチョル)牧師の孫に当たる方で、その人から突然「私は日本人を許すことができる」と告げられたのです。鈴木さんはその体験を「神社参拝決議の日(1938年9月10日)に生まれた私が、神社参拝を拒否して、そのために命を奪われた牧師の孫に許されるという巡り合わせは、人知を超えた神の御計らいとしか思えません」と述懐しています。

その後はYWCA総幹事、NCC議長を歴任、いまは「平和を実現するキリスト者ネット」の活動に力を注いでいます。市民運動の集会で、例えば「敵を愛せよ」といった聖書の言葉そのもので訴えることがあるそうです。「敵を愛せよ」とは「敵を理解するように努めること、それは、彼の状況に身を置き、彼の立場から世界を見、彼の関心や希望、彼の不安や傷ついた心を知るように努力すること」(哲学者K・F・フォン・ヴァイツゼッカー)だと知らされました。今年は「戦責任告白」40周年にあたり、聞き手としては父上の鈴木正久牧師について伺い、その関連で鈴木伶子さんにたどり着くという勝手な枠組でおりました。しかし鈴木さんはそのようなアローチを見事に覆され、全く独自の体験による戦責告白への道のりを、そしてまさにいま戦責告白を生きておられる様を、力強くしかも明るく証言くださったことを最後に申し添えます。

(聞き手・文責:相賀 昇)


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