この研修会の案内を見たとき、「沖縄で聖書を読み直す」という言葉が目に飛び込んできました。その呼び掛けに強くひかれ、何を置いても参加しようと決めたのでした。自分の城に居座って視点や論理を固定したままでは、「読み直し」は難しいという思いがずっとありました。しかし、後から考えてみれば、その発想自体が随分と高みに立った自己中心的なものであったかもしれません。
初日の夕方、各地から沖縄にやって来た参加者が、普天開基地野嵩ゲート前に集合しました。毎週月曜6時から行われている「ゴスペルを歌う会」に参加するためです。ゲート前では常連の人々が、「ノー・オスプレイ、ノー・レイプ、ノー・ベース」と英語で記した赤い幟【のぼり】を何本も立てて準備をしていました。毎週こうやって歩道に立ち、賛美歌を歌い続けているのです。
「大きな苦痛をもたらし続けている基地に、危険なオスプレイまで配備されてしまった。主イエスに従う者として黙ってはいられない。誰もこの声を止められない。私たちが歌わないなら石が叫ぶ」。そういう強い意志を、集った人々から感じました。
歌の合間に普天間バプテスト教会の神谷武宏牧師が聖書を読まれたのですが、市の中心を占領する基地のフェンスをみつめながら「剣を打ち直して鋤とし」(イザヤ書2:4)という御言葉を聞いたとき、聖書の証する神は、ここで叫ぶ者たちの祈りを確かに聞かれる神であると確信しました。と同時に、巨大な,軍事基地を作り殺戮兵器を持つことで安全が保障されるという神話を、キリスト教が直接間接に支えてきたし、なお支え続けているのだという現実に心が沈んだのも事実です。
翌日の開会礼拝の説教ではミンデルという心理学者の「自分の持っているランクを自覚せよ」という説が紹介されました。人は自分の持っていないランク(能力や地位など)には敏感なのに、持っているランクには鈍感で、気がつかないうちにそれを振り回して人を抑圧することが起こるというのです。確かにそうです。ではどうすれば自分のランクを自覚し、活用できるのか。「炎のただ中に座り続ける」というイメージがそこで提示されました。
炎の中に座る。これは私にとって、またおそらく他の参加者にとって、共同研修に臨むのにふさわしい覚悟でした。実際、私たちは、二泊三日の講演とグループ討論を通して炎に身を置いたのです。講師や、この地でキリスト者として労してこられた牧師や信徒の方々の発言はまさに炎でした。それは沖縄県民の怒りに深く根差す炎です。しかし、憎悪で人を焼き尽くす糾弾の炎では決してなく、ことばを真剣に受け止めることを求める炎、そして受け止めた者のうちに、自分たちの社会や自分たち自身の人間としてのありようを、真摯に問い直すことを求める炎、いわば神の国の炎であったと思います。
独自の歴史と文化を待つ沖縄にとって、日本国の一部とされてしまった歴史は何を意味するのだろう。日本の一部というならば、なぜ沖縄は「国内植民地」の扱いを受け続けるのか。沖縄に対する構造的差別の根底には何があるのか。そしてまた、沖縄の日常に入りこんでくる「戦争」とはいったい何か。戦争を正当化する神学とは何なのか。軍隊は本当に「必要悪」なのか。戦争抑止力として語られるが、現実には戦争呼び込み力として機能する基地をどう考えるのか。教会は何に向きあい、何を乗り越えていかなければならないのか。主イエスに従うとはどういうことなのか……。
これらの問題をずっと問い続けながら、教会の宣教に従事して来られた人々のことばは、簡単には表現できないほど深く重いものでした。東京ではこういう「本物のことば」にどれだけ出会えるだろうか、と思いました。長い苦闘の中でも誠実さを捨てず、良心的に生きてきた者だけが持つ精神の高みがあるのだと知りました。
沖縄と非沖縄の関係、という言い方がなされました。日本の抱える諸問題の一つとして「沖縄問題」を片付けるな、という主張がそこにあります。「ああそうだったのか」と気付き、異なる者であることを認め、そして対等に立つ。真剣に問われたことに真剣に応える。「沖縄を助けてあげる」のではなく、「沖縄問題」を自分たちのために利用するのでもなく。そのことに気づかされた三日間でした。
4月28日を「主権回復の日」として祝った政府や、「風俗」発言をして居直る大阪市長。沖縄に生きる人の尊厳を今も無視し続けるこの国にあって、私はどう聖書を読み、どう生きるのか。私の中で共同研修はまだ始まったばかりです。
(あらせ まきひこ/カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会牧師
日本キリスト教団出版局「信徒の友」2013年8月号より転載)